死と彼女2

 病院に飛び入ると、平静を装って早足で廊下を突っ切った。

 肺は肩で息をしなければならないくらい空気を欲した。

 母の代わりに酸素マスクをつけたくなった。


 母の病室を前にして、紫月は胸中で暴れ狂う心臓を両手で押さえつけた。

 疾駆と緊張で酷使した心臓がひどく痛んだ。


 神代さんが死んだのなら、お母さんは生きている。

 神様がお母さんの病気を治してくれたはずだ。

 そうでなきゃいけない。

 神代さんはそのために死んだのだから。


 病室のドアを勢いよく開ける。


「お母さん……?」


 ところが、ベッドの上に母はいなかった。

 病室には丁寧に整えられたベッドがあるだけだった。

 母はベッドの上で溶けてなくなってしまったかのようだった。


 へなへなとその場に座り込みそうになったが、ふと2つの可能性が思い当たった。


 1つは、母が死んでしまったという可能性。

 もう1つは、母が退院して家に帰ったという可能性。

 紫月は後者が現実であることを願った。


 とにかく、家に帰ってみないことにはわからない。


 息が休まる間もなく、紫月は再び駆け出した。

 体力が限界に達して意識が混濁してきたが、彼は一心不乱に母が待つ家を目指した。


 途中で何度立ち止まりそうになったことか、何度泣き出しそうになったことか。

 苦しくて、辛くて、悲しくて。


 いつも通るはずの畦道には、礼佳の死という壁が立ちはだかり、母の死という穴が大口を開けていた。

 まるで草木に覆い尽くされた真っ暗な森の中をかきわけながら進んでいるようだった。


 しかし、紫月は立ち止まらなかったし泣かなかった。

 汗を拭うこともせずに走り続けた。

 彼は確実に己の限界を超えていた。


 人間の身体は不便だ。

 神様ならいくら走り続けても死なないだろうし、心臓と肺が苦しくなることもないだろう。


 だからこそ人間は生きているんだ。

 人間は生きていたいと願うことができる。

 人間は誰かに生きていてほしいと願うことができる。

 だからこそ人間は美しいんだ。


 ――紫月は人間の死を彼岸花の死になぞらえた。


「はぁっ……! はぁっ……!」


 紫月はドアの前で膝から崩れ落ちた。


 地面に両手をつき、呼吸をするためだけに作られた機械のようにただただ空気の出し入れを繰り返す。

 汗がぽたぽたと滴り落ち、体内の水分がどんどん流れ出していく。


 紫月は少しだけ死を垣間見た。

 死の片鱗が意識の端を浮遊していた。

 礼佳に近付けたみたいで少しだけ嬉しかった。


 5分ほどしてようやく立ち上がれるようになり、紫月ははやる心臓を抑えながらドアに手をかけた。


「ただいま」


 家の中はどんよりと薄暗く、誰の気配もなかった。

 待てど暮らせど「お帰り」が返ってくることはなかった。


 無音が鼓膜をつんざき、耳鳴りがする。

 鞄が落下し、その音が家中に反響する。


「お母さん?」


 やはり返事はない。

 この家には誰もいない。

 今、この家にいるのは紫月ただ1人だ。


 いつもと同じだ。

「ただいま」と言っても「お帰り」と返ってくることはない。

 家には誰もいない。

 何故なら、それが紫月の日常だからだ。


 紫月は玄関に倒れ伏した。


 神様は残酷だ……どうして僕の願いを叶えてくれないの……どうして僕から大切な人を奪っていくの……僕はただ大切な人に生きていてほしいだけなのに……僕はただささやかな幸せがほしいだけなのに……。


 父も母も礼佳もどこかに行ってしまった。

 彼らは近くにいるようで遠くにいるのだ。


「お母さん……神代さん……」


 僕はこれからどうすればいいんだ……僕の大切な人は皆死んでしまった……心が痛い……心が痛くてたまらない……。


 ――がちゃり。


 大切な人との再会を切望するあまり、幻聴が聞こえてきた。


 ドアが開くはずなんてない。

 ああ、悲しすぎてついに心が壊れてしまったんだな。


「紫月」


 ほら、また幻聴だ。

 お母さんの声が聞こえた。


 お母さんは脳腫瘍で、それが発覚した時にはもう手遅れで手術をすることもできなかった。

 お母さんも本当は死を待っていたんだ。

 お母さんが諦めなかったのは僕を悲しませないようにするためで、本当は死を受け入れていたんだ。


 死を受け入れていなかったのは僕の方だった。

 僕は最後まで足掻き続けて、挙句の果てには神様にまで頼った。


 もしかしたら、神代さんと過ごした時間も全て幻覚だったのかもしれない。

 神様なんているはずがないんだ。


「紫月、こんなところで寝ていたら風邪を引くわよ」


「えっ……?」


 紫月はようやくそれが幻聴ではないことに気付いた。

 振り返ると、そこには大きなビニール袋をいくつも両手に提げた女がいた。


「お母さん……?」


「お帰りなさい、紫月。冷蔵庫に何もなかったから、お母さん、買い出しに行っていたのよ。今帰ったの?」


「うん……うん……そうだよ……」


「もう、どうしたの。男の子なんだから泣かないの。せっかくお母さんが帰ってきたんだから笑って出迎えて」


「うん……わかってるよ……お帰りなさい、お母さん……」


「ただいま、紫月」


 どうしても笑うことができなかった。

 紫月は泣きじゃくった。


 母に抱き寄せられて、頭を撫でてなだめられて――子供のようにされるがままだった。


 これでいいんだ。

 僕はお母さんの子供なんだから。

 お母さんが死んでいたらこうして触れ合うことはできなかった。


 この時をどれだけ待ち望んできたことだろう。

 どれだけお母さんの体温が恋しかったことだろう。


 しばらくこのままでいたい。


 夢のような喜悦の中、紫月は母の腕の中で眠りという崖の上から滑落した。

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