第5部 死と彼女
第1章
死と彼女1
カーテンの隙間から差し込む太陽の光で目が覚める。
紫月の脳裏を過ぎったのは死だった。
礼佳が死んだ――まだとても信じられそうになかった。
彼女の死が受け入れられなくて、まだ彼女が生きているような気がした。
学校に行かなきゃ。
もしかしたら、神代さんがいるかもしれない。
紫月は布団を跳ね除けて支度を始めた。
寝不足も相まって食欲がなかったため、朝食は取らないことにした。
というより、冷蔵庫の中はほとんど空だった。
洗面台の前に立ってびっくりした。
泣き腫らした瞼のせいで、顔が喧嘩で殴られたように不細工になっていたからだ。
顔をよく洗うと多少はましになった。
シャツを着てスラックスを穿く。
ネクタイを締めようとしたところで、ぴたりと手が止まる。
「神代さん……」
礼佳のネクタイを結んだ記憶が蘇った。
あのうなじの白さは忘れない。
鶴の首のようにひょろりとしていて頸椎の出っ張りがない滑らかなうなじを、僕は一生忘れないだろう。
紫月は頭をぶんぶん振って脳内から余計な思考を追い出した。
ソックスを履き、ブレザーの襟を正す。
鞄を肩にかけ、スニーカーの紐を結んで気付く。
そうだ、お弁当はどうしよう。
朝食を抜いてさらに昼食を抜いたら、さすがに気分が悪くなってしまいそうだ。
でも、冷蔵庫には何もない。
お弁当屋さんもまだ開いていない。
仕方ない、今日は我慢するしかないな。
紫月はいつもより軽い鞄を携えて外に飛び出した。
稲を刈り取られた畦道は物寂しかった。
いつもの通学路に違和感を覚えた。
運よく途中で焚き火をしているおばあさんに焼き芋をもらった。
2つも渡されたため、1つは朝食にしてもう1つは昼食代わりにすることにした。
焼き芋を頬張りながら足早に校門を通り過ぎ、高校2年生の教室のドアを開ける。
しかし、まだ誰もいなかった。
普段の登校時間より30分以上早いためだった。
紫月は何をするでもなく気長に待つことにした。
間もなくして慶吾と瑠璃が教室に入ってきて、それから郁弥が少し遅れてやって来た。
「礼佳、まだ来ないね。また病気になったのかなって不安になっちゃう」
「昨日は肌寒かったし、また風邪を引いたのかもしれないな。ほら、礼佳、着物だったから」
「そんなこと言ったら瑠璃だって着物だったんですけどー」
「馬鹿は風邪を引かないって言うだろ」
「瑠璃は馬鹿じゃないですぅー! っていうか、それ、ブーメランだよ! 郁弥も風邪を引かないもんね! やっぱり馬鹿は風邪を引かないんだねー」
「うるせぇ、ちび」
「ふふーん、なんとでも言えばー?」
「おっ、今日はやけに強気だな。何かいいことでもあったのか?」
「ふふーん、瑠璃には心強い味方がいるからね!」
瑠璃は慶吾の腕を抱きしめて誇らしげに鼻を鳴らした。
「本当は礼佳が揃ってからの方がよかったんだけど、もうすぐホームルームが始まっちゃうから発表するね。なんと、瑠璃たち、付き合うことになりました!」
「えっ!」
紫月は驚いて郁弥に目配せしたが、彼は意外にも平然としていた。
それどころか、瑠璃に感付かれないように慶吾にウインクしていた。
なるほど、汐華くんの手回しがあったというわけか。
昨日の秋祭りで香咲くんと饗庭さんがデートするように仕向けたのは汐華くんだった。
僕が神代さんとデートできたのも汐華くんのおかげだ。
饗庭さんはそのことに気付いてないのかもしれないけど。
「それにしても、礼佳、遅いね。今日は本当に欠席なのかなぁ」
「紫月、何か知らねぇのか?」
「し、知らないよ。本当に風邪を引いたのかもしれないね」
言えない。礼佳が死んだなんて口が裂けても言えない。
もし言ったら、5人の鎖のような固い絆がちぎれてしまうような気がする。
いや、もう既にちぎれているのかもしれない。
3人が知らないだけで、彼女は死んでしまったのだから。
輪が途切れたら心は通じ合わなくなってしまう。
いずれは3人にも真実を伝えなければならない。
神代さんが本当に風邪だったらよかったのに。
何事もなかったかのようにひょっこり登校してくれたらいいのに。
そんなことは何があってもあり得ないけど。
先生が教壇に上り、ホームルームが始まる。
放心しているといつの間にか午前の授業が終わり、昼休憩が始まる。
礼佳に弁当をわけた記憶が、幽霊のごとく脳裏に浮かび上がった。
もし神代さんがまたお弁当を忘れてきていたら、この焼き芋を半分わけてあげるのに。
2人で一緒に食べた方が冷めた焼き芋も美味しくなるのに。
いつか郁弥と登校中に食べた焼き芋と同じだったが、この教室で食べる焼き芋は味気なかった。
午後の授業の内容が頭に入ってくるはずもなく、3人の遊びの誘いは買い出しを理由に断った。
帰路につきながら、紫月は畦道のほとりに咲く彼岸花を見つけた。
美しく咲き誇る彼岸花。
雄しべと雌しべで支えるのは人間の魂。
神代さんの魂はどの彼岸花に支えられているのだろう、と思った。
「そうだ、お母さんは――」
思い立つが早いか、紫月は駆け出していた。
目的地は病院。
狭い畦道を跳ぶように駆け抜け、黄金色の小さな波が立った。
紫月は自分でも驚いていた。
こんなに速く走れたことがあっただろうか、こんなに長く走れたことがあっただろうか、と。
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