第6章
秘密と彼女14
草木も寝静まった深夜。
あてにならない月明かりの下、礼佳は深淵のような石段を上っていた。
落ちているような、登っているような――矛盾した感覚はあったが、彼女は確かに石段を上っていた。
何も見えない。
何も聞こえない。
感じるのは、悲しさと懐かしさ。
人間でいうなれば、自分の家に帰ってきたような安心感であった。
が、到底この悲しさに打ち勝つことはできそうもなかった。
月の光に照らされた参道を下駄を鳴らしながら進み、手水舎の裏にある川のほとりにしゃがみ込む。
1匹も救えずにおまけでもらった2匹の金魚を放し、もみじの木を横切る。
拝殿の賽銭箱の上に腰かけ、指先で唇をなぞる。
悄然ともみじの木を見上げる。
「紫月……」
紫月と一緒にもみじの木を見上げた時、無意識の中に沈んでいた約束のことを思い出した。
誰かと指切りをした約束。
果たさなければならない大切な約束。
1つだけ思い出したことがあった。
礼佳は紫月と約束した。
指切りを知っているはずがないのに、私は紫月と小指を結んで約束した。
つまり、礼佳も紫月と指切りをして何か約束したのだ。
だが、何を約束したのかはどうしても思い出せない。
「とても大切な約束なのに、どうして……?」
人間になってからもみじの木を見上げると、見慣れていたはずのそれが悲しいくらい美しく思えた。
神にとってもみじの木はただの木に過ぎない。
人間が白紙を見るのと同じで、もみじの木を見上げても何も感じない。
そもそも神には感情や感覚というものがない。
人間からしてみれば、神は生きていない。
神は死んでいる。
これから私は死ぬ。
死んだらもう二度と紫月に会えなくなる。
もう二度と紫月と一緒にいられなくなる。
もう二度とデートをすることも抱き合うこともキスをすることもできない。
礼佳がそうなってしまったように。
いくら神といえども自然の摂理を変えることはできない。
それはこの世とあの世の秩序を乱すことであり、神の禁忌でもある。
礼佳は嘆息した。
月の光に輝く景色のなんと美しいことか。
風に吹かれて手を振るように揺れる鎮守の森。
ひらりと舞い散る手のひらの落ち葉。
紅葉の赤、月光の青、影の黒を併せ持った神秘的なもみじの木。
神に戻ったら、この景色を眺めながら人間だったほんのわずかな時を思い出すことだろう。
そして、涙するのだ。
賽銭箱から下り、礼佳は自然の音に耳を傾けた。
境内に轟く森の咆哮。清澄な川のせせらぎ。
こすれるたびに乾いた音を立てる落ち葉。
この神社は感情や感覚のある人間にしか感じられない美しいもので満ち溢れている。
いずれはこの感情や感覚も時と共に薄れていくだろう。
徐々にではあるが、着実に。
「人間のままでいたい……」
だが、残念ながらそれは叶わぬ願いだ。
私は紫月の母を助けなければならない。
もう礼佳のように見殺しにはしたくない。
もう後悔はしたくない。
「人間に毒されたようだな」
背後から懐かしい声がした。
母の声だった。
「お母様」
「お母様? ふふふっ、なんだ、それは? 今まで一度もそう呼ばれたことはないぞ。人間のつもりか?」
「……はい。今は人間です。私は人間になって母の大切さを知りました」
「母の大切さ、か。まあ、いい。人間として生きてみてどうだった? 人間の肉体というものは実に不便だっただろう?」
「確かに、不便ではありました。生きるために食事や睡眠を取らなければならないし、走ると疲れて胸が苦しくなりました。1人だと孤独で、悲しいことがあると心が痛くなりました。ですが、悪いことばかりではありませんでした。食べ物はどれも美味しかったし、眠っていると宙に浮くような心地よさがありました。友達と一緒にいると楽しかったし、地面を踏みしめて走る高揚感は今でも忘れられません。デートして、抱き合って、キスをして――大切な人と過ごす時間はとても幸せでした」
礼佳は我知らず笑顔になっていた。
先ほどまでの悲しみは、紫月との思い出ですっかりかき消えていた。
「以前のお前は神として間違っていた。人間のことを理解すればお前も更生してくれるのではないかと思ってな。今なら神としてなすべきことがわかるであろう?」
「はい、お母様」
母なる神は純白の衣を空中に漂わせながら礼佳に近寄った。
そして、これまた純白で一切の穢れもない手を差し出した。
「秋祭りを催してこの神社への信仰が一気に集まった。お前はよくやった。お前が望むなら神に戻してやろう。ただし、神に戻れば人間に干渉することはできなくなる。神は傍観者だ。必要とあらば救い、必要とあらば罰する。人間の楽しみや幸せはもう二度と享受することができなくなる。それでもいいか?」
嫌だ、人間のままでいたい――これが礼佳の本心だった。
だが、そういうわけにはいかないのだ。
何度そう願ったってこの決意は変わらない。
私には神として、そして、紫月のためになすべきことがある。
「――はい。神に戻ります」
礼佳は母の冷たい手に触れた。
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