秘密と彼女12

 身体が温まって心が安らいできたところで、紫月はこう話を切り出した。


「君のご両親について話してよ。神様の世界にも大切な人がいるんでしょ?」


「いない。言っただろう、神は孤独で退屈なのだ」


「ご両親はいないの?」


「いない。いや、いるにはいるが……人間でいう両親はいない。人間は母の胎内から生まれるだろう? だが、私たち神は他の神の一部から生まれるのだ」


「他の神様の一部?」


「そうだ。例えば、私は髪の毛1本から生まれた。人間でいえば、その髪の毛の主が母なのかもしれないな」


「お母さんは大切な人じゃないの?」


「ふむ、どうなのだろうな。今まで大切だと思ったことはない。むしろ、恨んでいたのかもしれない」


「えっ、どうして?」


「私を神の座から下ろして人間にしたのが母だからだ。神の仕事を怠った私が悪いのだが、母は仮にも娘の私を切り捨てた。母は私のことを娘だと思っていなかった。私も母のことを母だと思っていなかった。神の世界ではこれが当たり前なのだ。所詮、神が子供を生み出すのは仕事を楽にするための手段でしかない。それに、神は死ぬことがない。楽しみも悲しみも幸せもない。だから、私には母を大切に思う心が理解できなかったのだ。だが、紫月のおかげで母と子の絆を知ることができた。今母に会ったらどうなのだろうな。私にも母のことが大切に思えるのだろうか」


「思えるよ、きっと」


 ――だって、君は神代さんのご両親の記憶を無意識に思い出して涙を流したんだから。


 神に戻っても人間の心は消えないだろう。

 少なくとも、当分の間は。


 それは彼女にとって辛いことだ。


 人間の楽しみ、悲しみ、幸せを一度でも知ってしまえば、人間が恋しくて仕方なくなる。

 知らず知らずのうちに人間の体温を求めてしまう。


 人間とはそういう生き物だ。


 紫月は湯飲みをテーブルの上にことりと置き、熱い吐息を漏らした。


 怖ろしい塊を受け入れる覚悟はできた。


 たとえそれが最悪の結末であったとしても受け入れるしかない。

 何をしようともうどうにもならないのだから。

 後悔してももう遅いのだから。


「ねぇ、神代さんは……どうなったの?」


 彼女が瞼を閉じる。


 怖ろしい塊が白い喉元までせり上がってくる。

 その言葉の重みに耐えられるかどうかわからない。

 もしかしたら、心が折れてしまうかもしれない。


 でも、と紫月は身構えた。


 やがて彼女は固く閉ざしていた瞼を開いた。

 が、途端に褐色の瞳は潤み、涙がつーっと頬に二筋の透明な線を描いた。


「――神代礼佳は死んだ……」


「えっ……?」


 胸の奥でガラスの割れる音がした。

 彼女の言葉はいとも容易く紫月の覚悟を打ち砕いた。


 茫然自失。

 紫月は括目したまま静止した。


「神代さんが死んだ……?」


 わかっていた。

 本当はわかっていた。


 心のどこかでは礼佳が帰ってこないことを知っていた。

 彼女が神代礼佳ではないことを知った時から胸騒ぎがしていた。


 だが、いざそれを言葉にされると、やはりどうしても受け入れることができなかった。

 受け入れようとしていた心は、無残にもぽっきりと折れてしまった。


「神代礼佳は肺炎で死んだ……」


「嘘だよね……?」


「本当だ……若くしてこの世を去ることになった礼佳があまりにも不憫で、神の座を下ろされることが決まっていた私は礼佳の肉体を器として憑依することにした……私は後悔した……私が紫月の願いを叶えて病気を治していれば、礼佳が死ぬことはなかった……あの日、紫月の願いはちゃんと私に届いていたよ……」


 視界が涙でぼんやり霞む。

 涙腺から涙が迸る。

 しつこい嗚咽を噛み殺す。


 あの日――紫月が礼佳の見舞いに行った日、彼女は死んだ。

 暗い病室で1人、彼女は彼岸花に看取られながら死んでいった。


「神代さんは生き返るよね……? 神様ならできるでしょ……?」


 彼女は無慈悲にも首を左右に振った。


「いくら神といえども死者を蘇らせることはできない。礼佳は救えなかったが、紫月の母は救いたいのだ。罪は償えないかもしれないが、何もしないよりはずっとましだ。私はもう後悔したくない」


 彼女は毅然として言った。

 涙を流しながらではあったが、彼女の決意は頑なだった。


 淑やかにすすり泣く彼女に対して、紫月は哀哭していた。


 拭えども拭えども涙が溢れてくる。

 涙腺の蛇口を捻られて涙が止まらない。


 かっこ悪くてもいい。

 情けなくてもいい。

 ただ、今だけは神代さんのために思い切り泣きたい。

 これから死ぬ彼女のために泣きたい。

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