第5章
秘密と彼女11
秋祭りが終わった。
明確な境界線は、昼と夜の狭間と同じようにわからなかった。
秋祭りはいつの間にか終わってしまっていた。
屋台や舞台や照明の片付けを手伝うことになったが、紫月は始終ぼーっとしていた。
礼佳の肉体に憑依した神のことと酸素マスクをつけた母のことが脳内をぐるぐる巡って、作業に集中できないでいた。
境内はあっという間に片付いた。
あれだけ多くの参拝者がいたというのにごみが散乱しているということもなく、屋台と舞台も円滑に解体された。
郁弥の恋人の先輩や村長や村の住民も手伝ってくれて、境内は元通り空疎になった。
5人は屋台で売れ残った缶ジュースで乾杯し、秋祭りの成功を祝った。
「今日は楽しかったね! 瑠璃、今までのお祭りの中で一番楽しかったかも!」
「村長も来年の秋祭りの開催を約束してくれたし、賽銭で神社の拝殿と本殿の改修もしてくれるってさ。これで神社の復興ができたね」
「神様も紫月の願いを叶えてくれるだろうさ。なあ、紫月?」
「…………」
「紫月?」
「あっ、ごめん。ちょっとぼーっとしてて」
「大丈夫か? 気分でも悪いのか?」
「ううん、はしゃぎ疲れただけだよ。休めばすぐによくなるから。皆、本当にありがとう。これなら神様もお母さんの病気を治してくれそうだよ」
紫月は4人に心の中を悟られないように笑顔の仮面をつけた。
今はとても心から笑えるような気分ではなかった。
神様は僕の隣にいる。
僕の願いを叶えるために神様に戻る。
明日になったら彼女はいない。
彼女がいなくなったことに皆は気付かないだろう。
神代さんが記憶を取り戻したと勘違いして、彼女の存在はなかったことになるだろう。
ううん、皆の中に彼女は最初からいなかったんだ。
僕の中にもさっきまで彼女はいなかった。
僕の中にいたのは記憶喪失の神代さんだ。
紫月は拝殿に目をやって苦笑した。
この1週間、僕は神様のいない神社にお参りしていたんだ。
僕のお願いは神様には届いていなかったんだ。
神様は隣で僕を支えてくれていたんだ。
照明が消灯されて、解散となった。
「また明日」という言葉が紫月の心に突き刺さった。
なよなよと揺れる赤灯籠の蝋燭の火が、石段の濃厚な影を暖色で塗り潰す。
苔1つない鳥居を抜けると、晴れた夜空から月光が降り注ぐ。
紫月は昨日のように彼女と並んで畦道を歩いた。
畦道を挟む稲は大部分が刈り取られていた。
黄金色の海は干上がっていた。
「なあ、紫月、私の家に立ち寄らないか? 続きを話したい」
「うん。僕はもっと君のことを知りたいな。神代さんとしてじゃなくて、神様としての君のことを知りたい。明日にはもう……いなくなっちゃうんでしょ?」
「……そうだ」
それから2人は黙々と畦道を進み、礼佳の家の前で立ち止まった。
紫月は玄関で靴を脱いだが、誰もいない廃墟に足を踏み入れているような気分だった。
生活感のない整然とした居間で待っていると、彼女はお茶を運んできた。
彼女もすっかり人間の生活に慣れてきたようだった。
「ありがとう。神様の世界ではお茶なんて淹れないんだろうね」
「まあな。神は食事をしない。神は生きていないから栄養を取る必要がないのだ。人間の身体は不便だが、神よりも楽しみがたくさんある。神は孤独で退屈だ。人間を知ってしまったらそう思える」
神は生きていない。
人間は生きている。
彼女は今生きている。
神に戻ったら彼女は死ぬ。
――大切な人が死ぬのは、自分の一部を失うのと同じだ。
紫月は改めて痛感した。
僕はこれから自分の一部を失う。
彼女が死んでもお母さんが死んでも、大切な人が死ぬのは同じだ。
神様が万能だったらよかったのに。
そうしたら僕は自分の一部を失わずに済んだかもしれないのに。
だが、どんなに強く願っても叶わないものは叶わない。
逆に言えば、片方の願いは叶い、もう片方の願いは叶わない。
たとえ彼女が何もしなくても同じことだ。
結果は変えられても、願いを両方共叶えることはできない。
「ああ、そうだ、栗饅頭があったのだった。いつか紫月と一緒に食べようと思って和菓子屋で買っておいたのだ」
彼女は台所を行き来し、栗饅頭を2つ持ってきた。
これが2人の最後の食事となった。
最後の晩餐は栗饅頭とお茶だった。
なんとも日本の秋らしいものだった。
栗饅頭の甘さとお茶の温かさが身に染みる。
そういえば、と紫月は思った。
昨夜も自分の家で似たようなことを思ったが、礼佳の家に1人だけで招かれるのは初めてだ。
慶吾、郁弥、瑠璃と一緒に遊びに来たことは何度もあったが、1人だけで彼女の家に入るのは初めてだった。
最初で最後だ。
今度この家を訪問する時、ここに彼女はいない。
彼女とはもう二度と会えないのだから。
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