秘密と彼女10
「ここに来ればまた会えるよね?」
紫月は縋るようにそう尋ねた。
彼女なら頷いてくれると思っていた自分がいた。
それが別れではないことを知っている自分もいた。
2人の自分は重厚な壁を隔てていがみ合っていた。
彼女は頷いてくれなかった。
「もう二度と会えない。神に戻れば人間とは交われない。神の世界と人間の世界は交われない。この状況が異常なのだ」
「そんな……僕は君と別れたくない! せっかく出会えて仲よくなれたのにもうお別れだなんて……」
彼女は紫月の手を握りしめた。
彼女の手は温かく、そばにいるという存在を直接証明してくれる。
彼女が神に戻ったら、この温かさは二度と感じることができない。
「私が神に戻らなければ紫月の母は助からない。私は自らが犯した罪を償いたい。そして、紫月に恩返しをしたい」
「罪?」
「私が神だった時に犯した罪だ。私はとんでもない過ちを犯した。私はそれをひどく後悔している。私は神として間違っていた。信仰してくれない人間を見放し、何もせずに怠惰に過ごしていた。私は人間の信仰を集めるために何かするべきだったのだ。皮肉にも人間になってから気付かされた」
これまでの彼女の行動に納得することができた。
彼女が後悔にこだわっていた理由がわかった。
彼女自身も後悔していたのだ。
紫月は繋いだ彼女の手をもう片方の手で包み込んだ。
「人間でいたいとは思わない?」
「人間でいたい。紫月と一緒にいたい。だが……そういうわけにはいかない。私は紫月の母を助けなければならない。もう後悔したくないからな」
「……そっか。もう……お別れなんだね。僕は後悔しているよ。君ともっと話しておけばよかった。君ともっとデートしておけばよかった」
「私もだ。私も紫月ともっと一緒にいたかったよ」
紫月は握力を強めて彼女の手を離すまいとした。
この手が離れたら間髪入れずに彼女が消えてしまうのではないかという想像が脳裏をちらつき、言いようのない恐怖に襲われた。
彼女がいなくなったら、きっと心に大きな穴が穿たれることだろう。
彼女は紫月の心を奪っていった。
風が吹き去るように。
紫月はやはり神代礼佳ではない彼女のことも好きになっていた。
それゆえに、彼女との別れは悲しかった。
彼女はもう紫月の中で大切な人だった。
――大切な人との別れは、自分の一部を失うのと同じことだ。
だが、終わりと始まりは同時に訪れる。
彼女がいなくなったら、コインの裏が表にひっくり返される。
彼女との時間が終わり、礼佳との時間が再び始まるだろう。
「ねぇ、君が神様に戻ったら神代さんはどうなるの? 神代さんは帰ってくるんだよね?」
「……それは――」
彼女が何か怖ろしい塊を吐き出そうとした寸前だった。
「紫月ー、礼佳ー、いちゃついてるところ悪いが集合だー。境内の片付けを手伝うぞー」
彼女の言葉を喉元に押し留めたのは、2人に向かって手を振る郁弥だった。
紫月は手を振り返し、最悪の想像を振り払うようにぱっと彼女の手を離した。
「行こうか。続きは後にしよう」
「……そうだな。私も林檎飴は後回しにしよう。食べ切る頃には夜が明けている」
彼女はそう言いながら林檎飴をビニール袋の中に落とした。
結局、彼女は表面の飴を舐めるばかりで、なかなか林檎を齧ることができなかった。
林檎飴は食べにくいのが難点だ。
2人は物憂げな表情のまま参道の方に向かった。
彼女との別れと引き換えに母の命が助かる。
彼女と別れなければ母は死んでしまう。
どちらを選んでも大切な人――自分の一部を失うことに変わりはない。
いや、紫月には道を選ぶこともできない。
それは神が決めることだ。
神様は理不尽だ――紫月はそう思った。
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