秘密と彼女9

 紫月は重々しく頷きを返した。


 礼佳は口を噤み、一呼吸置いた。

 息を吸う冷ややかな音が聞こえた。


「――私は……私は……私は神代礼佳ではないのだ」


 これを耳にして紫月が最初に思ったこと――それは、当然じゃないか、だ。


 今の彼女はまだ神代礼佳ではない。

 全ての記憶を取り戻した時、彼女は神代礼佳となる。

 それは紫月も理解している。


 だが、礼佳の秘密の暴露にはそれとは異なる意味があった。


「ずっと言いたかった。だが、言えなかった。秘密を打ち明けたら紫月に嫌われてしまうと思って、どうしても最後まで言い出せなかった」


「じゃあ、君は誰なの?」


「私は……この神社の神だ」


 礼佳――いや、この神社の神を名乗った彼女は、宣言通り嘘偽りのない真実を話した。

 とても信じられないが、彼女の瞳は嘘をついていなかった。


 そもそも神代礼佳という人間は嘘をついたことがなかった。

 彼女が神代礼佳でなければなんの証明にもならないが。


 ――紫月、この神社を復興しないか?


 彼女の突飛な提案が脳裏に蘇った。


「すぐには信じられないかもしれないが……私は神の座を追われて人間として生きることになった。理由は察しの通りだ。名前さえ忘れられた神社なんて存在する価値もないだろう? この神社に神はいらないということになり、人間の信仰を再び集めることができたら神に戻すという条件を課された。私は人間の肉体に憑依してここにいるというわけだ」


「じゃあ、神代さんは――君は人間の信仰を集めるために神社の復興を提案したの?」


「……そうなるな。私は神に戻りたくて仕方なかった。人間の肉体は不便だからな」


「じゃあ、君は僕を騙していたの?」


「……騙していなかったといえば嘘になる。私は紫月を利用しようとしていた。だが、紫月の母を救う方法はこれしかなかった。利害は一致していた。だから、私は神社の復興を提案した」


 礼佳の皮をかぶった彼女の言葉はすんなり受け入れることができた。

 が、まだ彼女に騙されているのではないかという疑念は拭えなかった。


 そうだ、僕はお母さんの病気を餌に釣られた魚だ。

 確かに、僕はお母さんのために何かしたかった。

 お母さんの病気を治すには神様に頼るしかなかった。


 でも、釈然としない。

 神代さんに裏切られたような気がしてならない。

 僕は神代さんを信じていたのに。


「ずるいよ……お母さんの病気を利用するなんて……君は僕を騙し続けてきたんだね」


 僕が神代さんと一緒にいたと思っていた時間は虚偽に満ちていた。

 昨夜、僕が抱きしめたのは神代さんじゃなかった。

 今日のデートだってそうだ。

 手を繋いだのは神代さんじゃなかった。


 僕は知らない誰かとずっと一緒にいたんだ。


 彼女は色素の薄い褐色の瞳に涙を滲ませていた。


 目の前にいる彼女は、神代礼佳であって神代礼佳ではない。

 瞳を潤ませているのは神代礼佳であり、悲しんでいるのは神代礼佳ではない誰かだ。


 彼女は首を横に振って何かを否定した。


「私は神に戻るために紫月を騙して利用していた。それは認めよう。だが、私の心に嘘偽りはなかった。私は人間が生きるということを知った。楽しみを知った。悲しみを知った。幸せを知った。全て紫月が教えてくれた。人間として生きるのも悪くないと思い始めていた。紫月と一緒にいられるのなら、神に戻らなくてもいいと思い始めていた。私の気持ちは全て真実だった。それだけは信じてほしい」


 彼女はやはり真実を話していた。

 彼女の言葉に疑いの余地はなかった。


 紫月はわずかに口元を緩めた。


「信じてるよ。神代さんは嘘をつかない。君もね。だから皆も君が記憶喪失だって信じた。いくら騙されて利用されていたとはいえ、君のことは嫌いになれないよ」


「紫月……」


 嫌いになれない――これは本心からの言葉だった。

 彼女が神代礼佳ではないのだとしても、彼女との思い出は事実だ。

 抱き合って体温を共有し、はぐれないように手を繋いだのは、紛れもなく彼女であった。


 もしかしたら、僕は彼女のことを好きになってしまっていたのかもしれない。

 記憶喪失になった神代さんは――


 ここで紫月ははっとした。


 彼女は1つだけ嘘をついた。

 彼女は記憶喪失なんかではなかった。

 彼女には元より人間の記憶なんてなかったのだ。


 彼女は申しわけなさそうに眉尻を下げた。


「紫月、私は――」


「記憶喪失じゃない、でしょ?」


「あ、ああ。紫月、本当にすまなかった。騙すつもりはなかったのだ。信じてもらえるかどうかはわからないが……」


「秘密を打ち明けてくれてありがとう。僕は君を信じるよ」


「本当に信じてくれるのか?」


「うん」


「よかった。これなら……心残りなく別れられそうだ」


 紫月はいまいち別れの意味を捉えかねていた。


 彼女が礼佳の肉体から抜け出したらどうなるのだろうか?

 肺炎と共に礼佳が帰ってくるのだろうか?

 もしそうなったら、彼女とはもう二度と会えなくなってしまうのだろうか?


 いずれにせよ、彼女との別れは紫月にとって悲しいものであった。

 この1週間で慶吾、郁弥、瑠璃の協力もあって親密になったのは、礼佳ではなく彼女――この神社の神だった。

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