神と彼女17
村の外は真っ暗だ。
畦道に街灯はないため、家の明かりと月の光を頼りに歩かなければならない。
いくら村の治安がいいとはいえ、暗闇には気をつけなければならない。
畦道をしっかり記憶していないと、朝になるまで家に帰れなくなることもある。
幸い、今夜は月明かりがあった。
青白い光に照らされた稲は本物の海のようだった。
病院が目前に迫ると、窓から漏れていた明かりがぱっと消えた。
2人は顔を見合わせたが、暗闇では互いに表情を読み取ることができなかった。
「閉まってしまったのか?」
「そ、そうみたいだね。でも、もしかしたら、まだ入れてもらえるかも」
病院に駆け込むと、受付を出ようとしていた看護師が明かりをつけてくれた。
彼女とは顔見知りであったため、母の見舞いに来たことをすぐに察してくれた。
母の病室を明るくした後、彼女は受付へと戻っていった。
看護師さんはわざわざ僕たちのために待ってくれている。
長居はできないな。
さっさとお見舞いを済ませて帰ろう。
病室が昼のように明るくなっても、母は死んだように眠っていた。
本当に死んでいるのではないかと思えるくらい寝息も立てずにぐっすり眠りこけていた。
紫月は誰もいない真っ暗な畦道で迷ったかのような不安に駆られた。
母に手を伸ばそうとすると、礼佳は肩を掴んでそれを制止した。
「起こさなくていい。今日はこのままでいい」
紫月は首肯し、栗ご飯が入った茶碗を窓際に置いた。
枕元には枯れた彼岸花の花弁が散らばっていた。
雄しべと雌しべは力尽きた老人の四肢のようにだらりと転がっていた。
「まるで死者のようだ」
「……うん」
礼佳の呟きを否定することもできず、紫月は小さな肯定を返した。
「神代さん、もう帰ろうか。お母さんも今日は起きないだろうし、看護師さんを待たせるのも申しわけないよ」
病室を出ようと礼佳の方を振り向いたところで、紫月の身体は動作することをやめた。
彼女の異変に気が付いたからだ。
「神代さん?」
「彼岸花……」
「えっ?」
記憶喪失の礼佳が知っているはずのない花。
彼女が記憶喪失になる前日、見舞いにあげた花。
病室の花瓶に挿されたコスモスの中心に飾った花。
目尻からこぼれる透明な雫。
あの日、母の病室の前で泣いたことを思い出した。
礼佳は涙を流していた。
「神代さん、どうしたの?」
「紫月、心が……心が痛い……」
「もしかして、記憶が戻ったの?」
しかし、礼佳は首を振って否定を表した。
「わからない……何故だかわからないが、心が痛いのだ……これが悲しみなのか……?」
「わからない。僕にもわからないよ。僕はまだ悲しみをよく知らないから」
だが、礼佳の涙を目の当たりにすると、心がずきずきと痛んだ。
心の痛み……これが悲しみか。
今までにも何度か感じたことがある。
確か、お父さんが死んだ時も。
目の前に2つの悲しみがある。
そうか、僕は悲しみを知っていたんだ。
僕は悲しみを忘れていただけなんだ。
心にめり込んだガラスの欠片――これが悲しみだった。
人間の心をハート型のガラスに例えよう。
ハート型のガラスが割れて、その欠片が他の人間の心に突き刺さる。
後悔と同様に、悲しみも連鎖する。
今、礼佳のハート型のガラスが砕け散った。
その欠片は紫月の一部を抉り取った。
紫月は泣かなかった。
その代わりに、両腕で礼佳を抱き寄せていた。
「悲しいなら思い切り泣けばいいよ。僕が支えてあげる」
黒髪から香るシャンプーの匂いが鼻腔を刺激し、理性をとろけさせる。
今さらながら息を吹き返した羞恥が急激に体温を上昇させる。
思考の羅列が停滞し、脳内が真っ白になる。
礼佳は薄い胸板に両手を添えて、堰を切ったようにすすり泣いた。
堰を切っても、彼女が取り乱すことはなかった。
彼女は涙を流す時も淑やかで美しかった。
紫月は礼佳が泣き止むまで黒髪を指で梳くように撫でていた。
嗚咽が治まってきたところで、2人は密着させていた身体を離した。
「少し……すっきりした。大切な人が死ぬ悲しみをようやく理解することができた。紫月、支えてくれてありがとう。おかげでまだ立っていられそうだ」
「どういたしまして。僕はいつまでも神代さんを支えられるくらい強くなるよ」
「頼もしいな。では、最後まで私を支えてくれ。約束だぞ」
礼佳は小指を差し出した。
特別になってしまったあの日のように。
紫月は躊躇うことなく礼佳の小指に自身の小指を絡ませた。
彼女と指切りするのはこれで二度目だ。
あの日の約束をまだ果たしていないというのに、さらに約束を重ねてしまった。
まあ、いいか。
それにしても、いつまでもと言ったのはまずかったかもしれない。
捉え方によっては告白と思われた可能性だってある。
でも、神代さんが最後までと言ったのも気にかかる。
最後までがいつまでなのか、僕には見当もつかないけど。
2人は病室を後にした。
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