神と彼女16

 栗ご飯は上出来だった。

 調味料が浸透した白米と柔らかくて甘い栗がうまく調和し、えも言われぬ旨味を引き出していた。

 蜆の佃煮を添えて口に運ぶと、美味しさは一層増した。


 豆腐と玉葱が入った味噌汁は薄味で飲みやすかった。

 以前の礼佳の料理も薄味の傾向があったため、少し懐かしく思えた。


 礼佳は一口食べるごとに白い頬を緩めていった。つられて紫月も表情を綻ばせた。


「美味しい。なあ、紫月は人間が食事をする理由を考えたことがあるか?」


「人間が食事をする理由? うーん、深く考えたことはないかな。でも、そんなの簡単だよ。人間は生きるために食事をする。食事して栄養を取らないと人間は生きられないよ」


「もっともな答えだ。だが、人間が食事をする理由はもう1つある。それは、人生をよりよく生きるためだ。食事をするのは楽しい。初めて食事した時――紫月に弁当をわけてもらって食べた時、私はそう感じた。いずれにせよ、食事は人間の生活には不可欠ということだな」


「そうだね。じゃあ、食事をさらに美味しくする方法は知ってる?」


「ふむ……あっ、調味料を加えればいいのではないか? この栗ご飯だって調味料だけでただの白米よりも遥かに美味しくなっている」


「調味料っていうのは惜しいかな。正解は、誰かと一緒に食事すること、でした。1人で食事するよりも誰かと一緒に食事した方が美味しく感じられるんだ。今、僕はそれを感じているよ」


「確かに、弁当を買って1人で食べるよりも食事が美味しく感じられる。紫月にわけてもらった弁当も、村長の家で食べた大福も、慶吾の家で食べたおにぎりと肉うどんも、町で食べたクレープも、1人の食事では味わえない美味しさがあった。誰かと一緒に食事することもまた調味料だったというわけか。ふふふっ、人間という生き物は興味深いな」


 僕と神代さんの瞳に映る世界は違う。

 たとえ同じものを見ていても、それに対して感じることは違う。

 同じもみじの木を見上げても、今の神代さんは僕とは違うことを感じる。

 あのもみじの木は、神代さんの瞳にはどう映っているのかな。


 紫月は栗ご飯を咀嚼し、味噌汁でそれを胃の中に流し込んだ。


 僕は何度も食べているけど、神代さんは栗ご飯も味噌汁も初めて食べる。

 僕とは感じる味も違うし、食事に対する価値観も違う。

 今の神代さんにとって当たり前のことは何1つとしてない。

 人間の当たり前が新鮮で、それに疑問を感じる。


 今の神代さんは純真無垢なんだ。

 いや、語弊があるな。

 記憶喪失になる前の神代さんも純真無垢だった。


 でも、今の神代さんは純真無垢の権化だ。

 今の神代さんは人間を少し高いところから俯瞰している。

 そんな神代さんから学んだことも少なくはない。


 食後のお茶を淹れ、紫月は満たされた腹をさすった。

 礼佳は早々にお茶を飲み干して食器を片付けた。

 居間で休むことを勧めたのだが、彼女は皿洗いを手伝うと言って聞かなかった。


 礼佳が手伝ってくれたため、皿洗いは早く終わった。

 居間でくつろいでから病院に行くことになり、2人はまたしばらく座布団の上で静謐な時を過ごした。


 沈黙の耳鳴りに耐えかねた紫月がテレビをつけようとすると、礼佳は厳粛な声音で彼の名前を呼んだ。


 最近の礼佳はよく思い詰めた表情をしている。

 何かを怖れているような、何かに怯えているような――そんな気がする。

 記憶喪失の不安もあるのだろうが、それとはまた別の何かがあるように思えてならない。


 紫月は姿勢を正して「何?」と答えた。


「紫月の父について尋ねてもいいか?」


「いいよ。僕に答えられることならなんでも答えるから」


 礼佳は肩の力を抜いた。


「父との思い出はあるか? どんな小さなことでもいい、覚えていることを話してくれ」


「そうだなぁ……うろ覚えだけど、これが唯一の思い出かなぁ。いつかお父さんに肩車されて田んぼに行ったことがあるんだ。お父さんが生きていた頃は僕の家も田んぼを持っていたらしいから、稲の収穫に行ったんだと思う。お父さんの肩の上から見下ろす田んぼはとても綺麗だった。写真でも確認したけど、お父さんは背が高かったんだ。当時の僕にはその景色は特別だった。風が吹くと稲が波のように揺らいで、稲穂が波の音を奏でる。田舎にも黄金色の海がある。かなり記憶を補ったけど、お父さんはそんなことを言っていたっけな。まだ幼かったから意味は全くわからなかったんだけどね。でも、秋になってこの村一面が黄金色の海になると思うんだ――お父さんが帰ってきた、ってね。だから、寂しくはないよ」


「甘美な思い出だ。羨ましいな」


「ありがとう。でも、羨ましいのは神代さんの方だよ。神代さんはこれからご両親のことを思い出せる。僕の消えてしまった記憶はもう戻らない」


「だが、死んだ両親の記憶が戻ることは悲しいことでもある。そうだろう?」


「……うん。だけど、悲しみも含めて思い出になるんだよ。人間は悲しみを背負って生きなきゃいけない。大切な人が死んで、泣きじゃくって、悲しみを乗り越えなきゃいけない。どんなに悲しくても、大切な人の死は忘れちゃいけないんだ」


 礼佳は複雑な表情をしていた。

 どう表情を形作ったらいいものか考えあぐねていた。


「ご、ごめん。別に神代さんを責めてるわけじゃないよ。ただ、ご両親の記憶を取り戻しても悲しみを乗り越えてほしいんだ。僕も……もしものことがあったら、どうにかして悲しみを乗り越えるからさ」


 不安の塊がぷかりと浮上してきた。

 母と彼岸花が脳内で重なった。


 すると、礼佳は紫月の手を取って両手で包み込んだ。

 彼女の手は温かくて、不安の塊はあっという間に雲散霧消してしまった。


「大丈夫だ、紫月。神はきっと願いを叶えてくれる。私は紫月に悲しんでほしくないのだ」


「……うん。僕は平気だよ。話を戻そうか」


「そうだな。私が登校した日、神社で話した時のことを覚えているか?」


「もちろん」


「紫月は父について少し話してくれた。その時は何も思わなかったが、後から思い返してみると引っかかった。父がどうして死んだのか知らないと言っていたが、それは何故だ? 紫月が知らなくても母が知っているはずだ。母に尋ねたことはないのか?」


「ううん、ないよ。お母さんはどちらかといえば楽観的だから、お父さんのことは話してくれないんだ。僕から尋ねるのも気が引けるしね」


「気にはならないのか?」


「ならないよ。だって、どうして死んだのかを知ったところでお父さんは帰ってこないから。いいんだ、知らなくても。ほんの少しだけど、僕の中にはお父さんの記憶が残っている。僕にとっては宝物なんだ。この村の秋の景色をお父さんと一緒に見ていたんだって思うと、お父さんの存在がすぐ近くに感じられる。お父さんは僕に悲しみを残さなかった。だから、お母さんも僕にお父さんのことを話さないんだと思う。僕もお父さんのことをこれ以上知りたいとは思わない。これで答えになったかな?」


 礼佳は大きく頷いた。

 それから、正座を崩して張り詰めた空気を抜くように溜め息を吐いた。


「紫月は強いな。それに比べて私は……はぁ、自分に嫌気が差す」


「僕は弱い人間だよ。僕なんか神代さんの足元にも及ばない。神代さんは僕なんかよりずっと強いよ。1人暮らしは孤独で苦痛だったけど、神代さんを見習ったら勇気が湧いたんだ」


「私は……いや、かつての私がどうだったかはわからないが、少なくとも今の私は紫月が思っているほど強くない。私は脆弱だ。支えがあってようやく立っていられる。紫月、慶吾、郁弥、瑠璃がいなかったら私は立てなかっただろう」


「僕も同じだよ」


 高いところにいると思っていた神代さんは、実は僕と同じところに立っていた。

 神代さんは近くにいるようで遠くにいると思っていたけど、やっぱり近くにいた。

 でも、神代さんが高嶺の花であることは変わらない。

 僕はやっと高嶺に登り詰めたんだ。


 紫月は立ち上がり、高嶺の花を見下ろした。


「そろそろ行こうか。急がないと病院が閉まっちゃうよ」


 母の茶碗に栗ご飯をよそってラップをかけ、紫月と礼佳は物干し竿にかけておいた上着を着て外に出た。

 案の定、外の空気は冷たかった。

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