神と彼女15

「紫月は敬虔だな」


 夕日の中に佇んでいたのは女神だった。


「神代さん。どうせなら一緒に来ればよかったね」


「全くその通りだ。慶吾の家からだと畦道が入り組んでいて、少し迷ってしまってな」


 礼佳は参道から逸れて落ち葉を踏んだ。

 彼女の目当てはもみじの木のようだった。

 紫月は彼女と合流するように歩みを進めた。


 2人でもみじの木を見上げる。

 依然として礼佳は約束を思い出してくれない。


「神代さんは何か神様にお願いしたいことはないの?」


「願い、か。特にないな。私の願いはいずれ叶う。だが、強いて挙げるとしたら――いや、なんでもない」


 礼佳の言いかけたことが気にはなったが、紫月はあえて追求しようとしなかった。

 記憶に関することだろう、と勝手に決めてかかっていたからだ。


「明日が楽しみだね」


「ああ。ここが人間で埋め尽くされるくらい賑わえばいいのだがな。そうでなければ苦労した甲斐がないというものだ」


「そうだね。はぁ、今日は疲れたよ。神代さんも疲れたでしょ? 帰り道、ずっと寝てたしね」


「まあな。だが、楽しかった。あの洋菓子はなんというものだったか……」


 礼佳が言わんとしているのは、町で先生がおごってくれた洋菓子のことだろう。

 郁弥と瑠璃に内緒で食べた洋菓子は村にはないものだった。


「クレープだったっけ」


「そう、それだ。少々甘ったるかったが、美味しかったな。あの飲み物は私の口には合わなかったが」


「コーヒーだね。僕もさすがにあれは苦くて飲めなかったな。先生は大人になったら飲めるようになるって言ってたけど、本当なのかな?」


「どうだろうな。大人になってみればわかるのではないか?」


「それもそうだね。まあ、そもそもこの村にはコーヒーなんてないし、僕はお茶がいいよ」


 境内が翳りを帯びる。

 あと1時間もしないうちに夜になる。


 紫月は夕食の献立を考えていた。

 栗ご飯の他に何を作ろうかと頭を悩ませていた。


「神代さんはこれからどうするの? お弁当屋さんで夕食を買うの?」


「そのつもりだ。瑠璃いわく私は料理が上手だったらしいが、今の私に料理ができるという保証はどこにもないのでな。ちらしの絵を描いた時のようにはいかないかもしれない」


「確かにね。僕は帰ったら栗ご飯を作らないといけないんだ。昨日、お母さんに栗ご飯を持っていく約束をしたんだ」


 ふと名案が脳内でちらついた。

 が、紫月はそれを口にするべきかしばし逡巡した。


 ひょっとしたら僕はとんでもないことを言い出そうとしているのかもしれない。

 ううん、構うもんか。

 僕はもう前にしか進めない。

 もう後ろは振り返らないと決めたんだ。


 勢いに身を委ねて、紫月は名案をさらけ出すことにした。


「神代さん、よかったら僕の家で一緒に食べない?」


 すると、礼佳はすぐさま頷いた。

 まるで誘われるのを待っていたかのように。


 2人は石段を下り、暗くなってきた畦道を踏み固めるように歩いた。

 その間、彼らが会話を交わすことはなかった。


 夜の畦道というのは危険なもので、油断していると田の中に足を突っ込んでしまいかねない。

 今は水が張られていないから安全だが、一度泥に足を引きずり込まれてしまえばそのまま転倒してしまう。


 紫月は不注意にもうとうとしていてそんな経験をしたことがある。

 そのため、暗がりの畦道を歩く時は集中するようにしている。

 もう全身泥だらけになるのはごめんだ。


 礼佳を家に入れて気付いた――そういえば、神代さんだけを家に招くのは初めてだな。


 慶吾、郁弥、瑠璃と一緒に遊びに来たことは何度もあったが、礼佳が1人だけで家に入るのは初めてだった。

 今さらながらとんでもないことをしてしまった、と紫月は思った。


「紫月、私も料理を手伝うぞ。世話になってばかりではつまらないからな」


「ありがとう。じゃあ、神代さんは白米を研いでくれる? 僕は栗の皮を剥いでおくから」


「わかった」


 当分買い出しに行っていないため、冷蔵庫の中には食材がほとんど残っていない。

 食べられるものがあるとしたら、蜆の佃煮くらいだ。

 おかずは作れそうにないが、味噌汁くらいなら作れそうだ。


 包丁で手際よく栗の皮を剥いていく紫月。

 慣れない手つきで白米を研ぐ礼佳。


 改めて思った――神代さんが記憶喪失になってからというもの、こうして2人きりで一緒にいる時間が増えた。


 同時に、礼佳ではない誰かと一緒にいる感覚がはっきりとしてきた。

 彼女は記憶を取り戻しつつあったが、確かにそういう感覚があった。


 礼佳の背中をじっと見つめながら、紫月は新たな願いが胸中に芽生えるのを感じた。


 僕もいつかは誰かと結婚して家庭を築くんだろうな。

 奥さんが料理する背中を見つめられる日が来るんだろうな。

 奥さんが神代さんだったらどんなに幸せなことだろう。


 今はまだ単なる妄想に過ぎない。

 が、人間はそれを叶えるために努力することができる。

 妄想を現実にすることこそが幸せだと思う。


「紫月、できたぞ」


「じゃあ、炊飯器に入れておいて。後で栗と調味料を加えるから」


「わかった。次は何をしたらいい?」


「えーっと……一応確認しておくけど、味噌汁の作り方は知らないよね?」


「すまない、味噌汁もわからない」


「だよね。じゃあ、一緒に作ろうか。もしかしたら、作っているうちに何か思い出すかもしれないし。作り方は簡単だよ」


 炊飯器の蓋を閉めた後、紫月と礼佳は肩を並べてガスコンロの上の鍋の中を覗き込んでいた。

 鍋の中の水はやがて褐色に濁り、最低限の具材を入れてそれを味噌汁とした。

 包丁で食材を切る彼女は危なっかしかったが、身体が覚えていたのか上達するのは速かった。


 あとは栗ご飯が炊けるのを待つだけだ。


 2人は居間で熱いお茶をすすった。


 1人にはあり余る空間がちょうどよく思えた。


 やはり居間には誰かがいた方がいい。

 内心の空虚が紛れる。

 ただそこにいるだけで温かい。


 閑静な居間は息苦しかった。

 心臓の鼓動と呼吸の音を隠そうとすると、どこかの奥底で忘却されていた生がもがいた。


「紫月」


「うん、何?」


「紫月の母に会ってみたい」


 礼佳は慎重さを孕んだ口調でそう言った。

 それが何か重大なことであるかのように。


 だが、紫月にとってはなんでもないことであった。

 むしろ、礼佳が母に会ってくれるのは喜ばしいことであった。


「もちろんいいよ。夕食が済んだら栗ご飯を持って病院に行こう。神代さんがお見舞いに来てくれたら、お母さんもきっと喜ぶよ」


「そうだといいのだが。私は紫月の母が知っている神代礼佳ではない。不審がられたりしないだろうか?」


「大丈夫、もうお母さんには神代さんが記憶喪失になっちゃったことを話してあるから。あんまり驚いてなかったけど、多分信じてくれてるよ」


「そうか」


 それからしばらく2人はローカルテレビのニュースを見ていた。

 途中で神社の秋祭りのことが大々的に宣伝されて、彼らはほくそ笑んだ。


 栗ご飯が炊き終わる頃には外はすっかり暗くなっていた。

 味噌汁を温め直して、紫月と礼佳は夕食を取ることにした。

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