第4章
神と彼女8
午前9時30分。
紫月は礼佳の家のチャイムを鳴らした。
礼佳はしばらくしてからドアを開けた。
彼女いわくなんの音かわからなくてあたふたしていたのだという。
「じゃあ、行こうか。香咲くんの家は少し遠いけど、この畦道に沿っていけば着くから」
紫月と礼佳は両端に彼岸花が群生している畦道を歩き出した。
何度も通った道だが、恐らく彼女は忘れてしまっているだろう。
てっきり制服を着ているものだと思っていたが、礼佳は私服だった。
白のブラウス、赤のカーディガン、黒の布地に華麗な花柄のスカート、汚れ一つない純白のパンプス。
記憶がなくなる前の礼佳と同じ大人びた服装だった。
「神代さん、似合ってるよ。神代さんらしい」
「そうか、それならよかった。少しずつ記憶が戻りつつあるようだ。昨夜はシャワーを浴びた。温度の調節が難しかったが、汗が流れてさっぱりしたぞ」
「冷たい水を浴びてないか心配だったんだ。早く記憶を取り戻せるといいね」
「ああ。私も早く両親や友達のことを思い出したい。もっと紫月のことを知りたい」
紫月は照れた。
羞恥を紛らわせるように視線を彷徨させていると、ある光景が目についた。
黄金色の海にところどころ穴が開いている。
古い布団のように稲架に干された稲。
天日干しをして十分に乾燥したら、稲は脱穀されてやがて米となる。
いよいよ稲刈りの時期だ。
米が収穫できるのはありがたいことだが、この景色が見られなくなるのは少しばかり寂しい。
鎌で一束ずつ稲を刈っていくおじいさん。
滴る汗をタオルで拭いながらせかせか働く。
この村には機械がないため、全て手作業で稲を刈らなければならない。
まあ、これも田舎ならではでいいと思う。
「秋は短いな。私は秋が一番好きなのに」
「どうして?」
「もみじの木が紅葉するから」
紫月はばっと礼佳の方を振り向いた。
しかし、礼佳は首を傾げて瞼を瞬かせるばかりだ。
病室のベッドの上で指切りした礼佳が帰ってきたような気がした。
ほんの一瞬だけだったが、懐かしい匂いがした。
だが、紫月はこの感覚がおかしなものだと思い直した。
目の前にいるのは紛れもなく神代さんなのに、神代さんが帰ってきたって感じるなんて変だな。
きっと気のせいだ。
神代さんはあの約束を忘れている。
20分ほど歩いて、紫月と礼佳は慶吾の家のチャイムを鳴らした。
間もなくして、慶吾、郁弥、瑠璃が中から出てきた。
「皆、早いね。何時からいたの?」
「郁弥は8時から、瑠璃は9時からいたよ。俺はまだ寝てたかったんだけどな」
「いや、早朝に目が覚めて寝付けなくなっちゃってさ。慶吾と将棋でもしようと思ってそのまま家を出たんだよ」
「瑠璃も慶吾とトランプをしようと思って早く出発したの」
慶吾は欠伸をしながら爪先で何度か地面をつついた。
「さて、村長に会いに行こうか。うまく説得できるといいな」
村長の家はほとんど香咲家の向かいにある。
なだらかな坂を上ればもう村長の家だ。
5人は盆栽が陳列する家の門をくぐり、3つの白い立て砂が屹立する風流な庭を通り抜けた。
チャイムがなかったので、慶吾はドアをたたいた。
少ししてから立てつけの悪いドアが強引に開かれた。
玄関から現れたのは、翁の能面のような顔をしたおじいさん。
白髪の頭は額から頭頂部にかけて禿げており、腰が45度近く曲がっている。
今年で80歳を迎える。
この気のよさそうなおじいさんが村長だ。
「村長、神社のことで相談があるんです。時間をいただいてもいいですか?」
「もちろんいいとも。わしはいつも暇じゃからのう。まあ、上がりなさい」
5人は村長に案内されて居間へと通された。
5人が正座して待っていると、村長は急須で熱いお茶を淹れてくれた。
お茶を飲み終えてさらに待っていると、今度は大福を出してくれた。
なんと、5人のためにわざわざ和菓子屋まで奔走して買いに行ってくれたのだという。
5人は図らずも老体に鞭を打ってしまったことを謝り礼を述べた。
瑠璃がお茶で舌を火傷したと言えば氷を持ってきて、お代わりしたお茶がなくなればもう一度湯を沸かした。
老体であるにもかかわらず、村長はぜんまい人形のようによく働いた。
5人のやり取りを村長は微笑ましそうに見守っていた。
翁の能面が笑顔を絶やすことはなかった。
村長は子供好きで有名だ。
散歩が老後の趣味で、子供を見かけるたびに声をかけてはお菓子やジュースを買っている。
そのため、村長は村中の子供たちから慕われている。
5人も幼い頃から孫のように可愛がってもらっている。
子供たちだけでなく、住民からの信頼も厚い。
村おこしに尽力した村長のおかげでこの村は存続している。
本来なら隣の村や町と合併していてもおかしくないが、生活の便利さよりも住民の希望を優先した村長のおかげで村は独立している。
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