忘却と彼女6

「父はどうした? 弁当を自分で作っているということは一人暮らしなのか?」


「うん。お父さんは僕が物心つく前に死んだんだ。どうして死んだのかは知らないし、ほとんど写真でしか見たことがないな。僕はお母さんが病気になって入院してから一人暮らしをしているんだ。家事は大変だけど、しょうがないよ。お母さんの方がもっと大変だし、僕も頑張らないと」


「母が大切か? 私には母を大切に思う心が理解できないのだ」


 礼佳は少し物悲しげにそう言った。


 礼佳は紫月と同様に一人暮らしをしている。

 両親は事故で亡くなり、親戚に引き取られることもなく誰かの家の養子になることもなくずっと1人で生活している。


 記憶喪失になってしまった今、礼佳の中に両親との思い出はなかった。

 それゆえに、彼女には両親の大切さが理解できなかった。


 神代さんは僕よりも強い。

 僕にはお母さんがいるけど、神代さんは1人だ。


 でも、いくら強くてもいつかは孤独に押し潰されてしまう。

 だから、僕、香咲くん、汐華くん、饗庭さんが神代さんを支えてきた。

 僕たちだけじゃない。

 村の皆が支えてきた。


 心の疼痛が幾分か和らいだ。


 僕は幸せだ。

 僕は1人じゃない。

 少なくとも、まだ今は。


 神代さんは僕よりも孤独を知っている。

 僕も神代さんのように強くならなくちゃいけない。

 恐怖に打ち勝つんだ。


 賽銭箱の前に座り、礼佳の問いに答える。


「お母さんは大切だよ。お母さんだけじゃない、家族も友達も大切だよ。口では言い表せないくらい複雑だけど、いずれは神代さんも理解できるようになるよ」


「そうだといいのだが。なあ、紫月、記憶喪失になる前の私にも大切な人がいたと思うか?」


「わからないよ。でも、友達は大切だったんじゃないかな」


「そうか。友達、か……最後に1つ尋ねたい。大切な人が死んだら悲しいのか?」


 礼佳は両親の死の悲しみを忘れてしまった。

 彼女は人間であることを忘れてしまった。


 紫月の内心では、悲哀と憐憫が渦巻いていた。


 今の彼女は神代礼佳であって神代礼佳ではない。

 彼女を神代礼佳たらしめていたのは記憶であり、それを喪失した彼女は神代礼佳の抜け殻だ。


 太陽が山の間に沈みかけて、境内のもみじの木が燃え盛る。


「多分、悲しいよ。僕にはまだわからないんだ。お父さんが死んだ時はまだ幼かったから悲しさは感じなかったけど、きっと大切な人が死ぬってことは自分の一部を失うのと同じことだと思う」


「自分の一部を失う……」


 呆然と呟いた礼佳。

 長いまつ毛を伏せた彼女は、枯れかけた彼岸花のようだった。


 しかし、不意に礼佳は賽銭箱の上から跳び下りた。


 礼佳がくるりと半回転し、プリーツスカートが婉美に翻る。


「紫月、この神社を復興しないか?」


 あまりにも突飛な提案に、紫月の目は点になった。

 口角を上げた礼佳の意図は読み取れなかった。

 彼女には何やら思惑があるようだった。


「いきなりどうしたの?」


「紫月の母を救う方法は1つしかない。神に頼るのだ」


「でも、どうしてこの神社を復興するの?」


「神の力を取り戻すためだ。この神社はひどく廃れている。信仰されていない神が願いを叶えられるはずがない」


 確かに、この神社にはもはや名前さえない。

 ここを知っている村の住民からはただ神社と呼ばれている。

 神が祀られているのかも怪しい。


 村の過疎化と高齢化に伴い、参拝者がめっきりいなくなってしまった。

 この神社は人間に忘れ去られてしまった。


 神は人間の信仰で力を得ると耳にしたことがある。

 もしこれが正しいのだとしたら、この神社の神に願いを叶える力はない。


 礼佳はもう一度半回転し、立派に聳立するもみじの木を見上げた。


「私は紫月を助けたいのだ。紫月には世話になった恩がある。言うなれば、これは恩返しだ。神に頼るしか方法がないのなら、とことん試してみようではないか」


 礼佳が紡ぎ出したのは希望の糸だった。

 紫月はこの糸の先をしっかりと掴んだ。


 神代さんの言う通り、僕にできる最後の抵抗は神様に頼ることだ。

 この神社を復興することには僕も賛成だ。

 何もせずに1週間を過ごすよりはましだし、もし神様がほんのわずかな力を振り絞って神代さんの病気を治してくれたのならお礼がしたい。

 それに、何より僕はこの神社が好きだ。


 礼佳の隣に並び、紫月は彼女と一緒にもみじの木を見上げた。


「神代さん、ありがとう。この神社を復興して、神様に願いを叶えてもらおう」


「ああ。紫月の大切な人を死なせはしない。絶対にな」


 2人の瞳に映る景色は同じだった。

 見慣れた景色だった。

 が、同時に彼らは矛盾した違和感に苛まれていた。

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