忘却と彼女5

 紫月はぎこちなく笑顔を形作った。


「やっぱり今日は行かないことにしたんだ。毎日行っても病気が治るわけじゃないし、神様に頼ることにしたんだ。そんなことより、神代さんこそここで何をしているの?」


「別に何もしていない。ただ、この神社は私にとって特別な場所なんだ。きっとな。誰かと約束したのだ。どんな約束かは忘れてしまったが、とても大切な約束だ。ここに来れば何か思い出せるのではないかと思ってな」


 やはり礼佳の無意識の中には昨日の約束が残っている。

 そうでなければ彼女はここにはいない。

 彼女がここにいるのは偶然ではなく必然なのだ。


 だが、今は約束を果たすべき時ではない。

 礼佳が記憶を取り戻した時、このもみじの木の下で彼女に告白する。

 その日までこの約束は胸の奥にしまっておこう。


 礼佳は紫月の隣で立ち止まり、自嘲するように鼻を鳴らした。


「どうやら無駄足だったようだ。結局、何も変わらなかった。何も思い出せなかった。どうしてだ。どうして思い出せないのだ。誰と約束したのかも何を約束したのかもわからない」


「記憶が戻ったら約束も思い出せるよ。とにかく、今は普通の生活を送るのに慣れることだよ。香咲くんが言っていたように、ひょんなことで記憶を取り戻せるかもしれないよ」


「そう、だな。悩んでいても仕方ない。なんにせよ、早くこの生活に慣れる必要がある」


 礼佳は賽銭箱の上に腰かけた。

 それは椅子じゃないよ、と注意しようかとも思ったが、記憶喪失の彼女には野暮なことだ。

 紫月は苦笑するだけに留めておいた。


「ところで、紫月、先ほど神に頼ることにしたと言っていたが、何故だ? 神に頼るよりも紫月が見舞いに行った方がよほど母も元気になるだろう」


「元気になるだけじゃ意味がないんだよ」


「どういうことだ?」


 礼佳に背中を向け、紫月は「ふぅ……」と深く息を吐いた。


「僕のお母さんは脳腫瘍っていう病気なんだ。僕も詳しいことは知らないんだけど、脳の腫瘍が大きくなると死んじゃう病気なんだって。危険だから手術もできないし、もう手遅れなんだ。病院の先生には末期なのに話ができているのも奇跡的だって言われたけど、お母さんが1週間後には死んじゃうかもしれないなんてとても信じられないよ」


「もう病気を治す方法はないのか?」


「うん。だから、神様に頼っているんだ。神代さんの病気を治してくれたのが神様だとしたら、お母さんのことも助けてくれるかもしれないから」


 すると、礼佳は賽銭箱から勢いよく立ち上がった。


「神は役に立たない! 紫月、できる限りのことを尽くせ! 見舞いには毎日行け! さもないと後悔するぞ!」


 突然の大声に、紫月は瞠目した。

 が、彼の心は自分でも驚くくらい平静を保っていた。

 彼は礼佳の言葉を十分すぎるほどに理解していたからだ。


「神代さん、僕はできる限りのことを尽くしているよ。絶対に最後まで諦めない。お母さんと一緒に闘い抜く。僕は願い続けるよ。僕にはそれくらいしかできないから。僕は神様に頼ることしかできないから」


 礼佳はへなへなとまた賽銭箱の上に腰を下ろした。

 ぱんぱんに膨らんだ風船の空気が抜けて萎んでしまったかのようだった。


「すまない。軽はずみなことを言ってしまった」


「いいんだ。でも、神代さんのおかげでお見舞いに行く勇気が湧いてきたよ」


「見舞いに行くのに勇気がいるのか?」


「うん。病院に行くのが怖いんだ。いつもお母さんは眠っていて僕が起こすんだけど、目覚めなかったらどうしようって思うと怖いんだ。お母さんの前で泣いてしまいそうで怖いんだ」


 紫月は振り向いた。


 2人の視線が空中で交錯する。

 2人の間を一陣の風が通り過ぎる。

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