第3章

忘却と彼女4

 放課後になり、慶吾、郁弥、瑠璃の3人は礼佳を連れて弁当屋まで夕食を買いに行った。


 さすがに夕食は作れないのでは、と心配した3人の気遣いだった。

 紫月は昨日と同じく家事と見舞いを理由に帰宅した。


 白米を研いで炊飯器のタイマーをセットし、ブレザーからジャケットに着替える。

 冷蔵庫を開けると食材が少なくなっていたので買い出しに行こうかとも思ったが、今日はやめておくことにする。


 肌寒い風にさらされながら畦道を歩く。


 だが、母がいる病院に行く気にはならなかった。

 母に会ったらまた泣いてしまいそうだったから。


 紫月は無意識に神社を目指していた。

 はっと我に返ると、壊れかけた鳥居の前にいた。


 石段を1段上るたびに薄暗くなっていく。

 木々の隙間から差し込む光が石段に不気味な模様を描いている。

 その模様は風が吹くたびに千変万化し、時には使い古した蛍光灯のようにちかちかと瞬く。


 紫月は手水舎で身を清めた。

 それから、無人の参道を突き進み、5円玉を賽銭箱に入れた。

 本当は10円玉を入れたかったが、生憎財布の中には10円玉がなかった。


 5円玉が賽銭箱の底にぶつかる音を聞き届けた後、鳴らない鈴を思い切り振った。

 神の足音ではなく川のせせらぎが聞こえた。


 2礼、2拍手。

 瞼を閉じて、叶うはずもない願いを心の中で唱える。


 ――お母さんの病気が治りますように。


 瞼を開けると、礼佳のことが思い浮かんだ。


 もしかすると、神様は僕の願いを叶えてくれたのかもしれない。

 神代さんの病気を治してくれたのかもしれない。

 衰弱していた神代さんがたった1日で退院できるくらい回復するなんておかしい。

 記憶喪失はその代償なのかもしれない。


 紫月は1礼した体勢のまま俯いた。


 お母さんの病気も治してほしいな。

 たとえ記憶喪失になって僕のことを忘れてしまっても構わない。

 お母さんが生きていてくれたらそれでいい。

 今までの記憶がなくなっても、思い出は新しく作ることができる。

 でも、死んでしまったらそれまでだ。


「紫月」


 玲瓏な美声が名前を呼んだ。

 紫月は反射的に振り返った。


 夜の帳を連想させる黒髪。

 風になびく可憐な漆黒の髪に比べたら、赤く染め上げられたもみじの美しさなんてちっぽけなものだ。

 色素の薄い褐色の瞳。

 夕日を浴びた瞳にはもみじが映って紅葉している。


 紫月を呼んだのは礼佳だった。

 彼女はローファーの踵を鳴らしながら優雅に参道を闊歩していた。


 紫月ははっとした。


 礼佳は昨日の約束を覚えていたのだろうか。

 記憶喪失ならこの神社の場所はわからないはずだ。

 たまたま行き着いたというのはあり得ない。


 彼女の片手には、弁当とお茶のペットボトルが入ったビニール袋が提げられている。

 慶吾、郁弥、瑠璃と弁当屋に行った証拠だ。


 弁当屋から神社までそう距離はないが、入り組んだ畦道を通らなければならない。

 つまり、偶然ここに行き着く可能性は低いのだ。

 無意識のうちにこの神社の場所を思い出したのだとしたら、昨日の約束も思い出せるかもしれない。


 天上から一縷の希望が垂らされた。

 礼佳の病室の花瓶に挿した彼岸花が脳裏を過ぎった。


「母の見舞いに行ったのではなかったのか?」


 刹那、心にガラスの欠片が突き刺さった。

 脳裏の彼岸花はさっとかき消え、ベッドの上に横たわっている母の寝顔が浮かび上がった。


 そうだ、お母さんはあと1週間持つかどうかわからないんだ。

 どうしてお見舞いに行かなかったんだろう。

 もしお母さんが今日死んでしまったら――ああ、想像もしたくない。

 でも、もしそうなってしまったら、僕はきっと一生後悔する。


 しかし、やはりどうしても病院に行く気にはなれなかった。

 母の前で子供のように泣きじゃくってしまうのが怖かった。

 泣いたら母がどこか遠くに行ってしまうような気がしてならなかった。


 僕はお母さんの子供だけど、弱い子供でいたら駄目なんだ。

 お母さんを支える強い柱にならないといけないんだ。

 だから、お母さんの前で涙を見せるわけにはいかない。

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