忘却と彼女2
慶吾は人差し指で眼鏡の縁を押し上げた。
「礼佳、自分のことはわかる?」
「いや、何もわからない。ただ1つわかるのは神代礼佳という名前だけだ。第一、この名前も学生証で知った。学生証の住所を頼りに家に帰ったが、何をしていいものか皆目見当もつかなかった。今朝はまだ暗いうちからここを目指して歩き回っていたのだ」
「慶吾、どう思うよ?」
「やっぱり記憶喪失だろうね。それも症状がひどい。俺たちのことや自分のことを忘れるならまだしも、ネクタイの結び方も忘れるなんて。礼佳は人間として生きていたことを忘れてしまったんだ」
「えっ、そんな!」
瑠璃はさっと青ざめて涙ぐんだ。
「じゃあ、礼佳は最初から人間をやり直さなきゃいけないの? 瑠璃たちとも最初からやり直し? 瑠璃たちとの思い出も全部なくなっちゃったの?」
「残念ながらそうなるね」
「そんなの絶対にやだっ! 瑠璃、礼佳に忘れられちゃったなんて悲しいよっ! 礼佳、瑠璃は親友だったんだよっ! 本当に覚えてないのっ?」
「す、すまない」
「礼佳ーっ! 2週間前の礼佳に会いたいよっ! 礼佳、帰ってきてよっ!」
記憶喪失の少女に泣きつく瑠璃。
慶吾は彼女の背中を優しくさすり、礼佳は困惑して両手を宙に彷徨わせた。
「瑠璃、泣かないで。何も礼佳は死んだわけじゃないんだから」
「でも、瑠璃たちが知ってる礼佳はもういないじゃんっ! うわぁーっ、やっぱり礼佳は死んじゃったんだーっ!」
「瑠璃、落ち着いて。記憶喪失も病気と同じで治る可能性がある」
「えっ、どうすれば治るの?」
「いつも通り生活していれば治るよ。ひょんなことで記憶を取り戻すかもしれないし、俺たちもいつも通り礼佳と接すればいい。ほら、瑠璃が泣いていたら礼佳の記憶も戻らないよ」
慶吾がそう言うと、瑠璃の泣き顔は手品のように一瞬で笑顔になった。
郁弥が呆れた溜め息を吐く。
「本当、瑠璃は単純だよな。まあ、それが瑠璃のいいところでもあるんだけどな」
「えへへ、褒められちゃった。礼佳、瑠璃も全力で記憶を取り戻す手伝いをするからね。わからないことがあったらなんでも言って。瑠璃たちが教えてあげるから」
「ああ、頼りにしているぞ」
「よし、じゃあ、まずはネクタイの締め方から始めないとね。えっとね――」
「おい、瑠璃」
瑠璃の説明を制止したのは郁弥だった。
2人は紫月を前後に挟んで何やらやり取りをし、くすくすと笑いを漏らした。
郁弥は肘で紫月の背中を小突いた。
紫月が首だけで振り返ると、郁弥は身を乗り出して小声で耳打ちした。
「紫月、お前が結んでやれって」
「えっ、僕が? む、無理だよ。そんなこと、恥ずかしくてできないよ」
「おいおい、恥ずかしいとか言ってる場合か? 記憶喪失ってことは、お前との思い出も全部消えちまったんだぞ? お前が見舞いに通っていたことも、お前への気持ちも、綺麗さっぱり忘れちまったんだぞ? 記憶が戻るにしても、好感度を上げておいて損はねぇよ。それに、これはチャンスでもあるんだぜ? 言っただろ、俺たちはお前の恋が成就するように全面的に協力するって」
「でも――」
「でもじゃねぇよ。ここは俺に任せとけって。おい、礼佳、紫月がネクタイを結んでくれるってよ」
「紫月?」
「隣にいるだろ。これは後で自己紹介だな」
郁弥の肘に急かされて、紫月はパニックになりかけた。
礼佳からネクタイを受け取ると、落ち着きなく手が震えた。
その様子を傍観している慶吾までうっすらといやらしい笑みを浮かべていた。
協力してくれるのは嬉しいけど、さすがにネクタイを結ぶのは気が引けるなぁ。
でも、汐華くんの言う通りだ。
神代さんは記憶喪失で、僕との思い出も昨日の約束も忘れてしまっている。
僕と神代さんの関係は一時的にリセットされてしまった。
もし神代さんの記憶が戻らなかったら、失われたものは永遠に失われたままになってしまう。
でも、神代さんが記憶喪失になっても僕の気持ちは変わらない。
神代さんが記憶を取り戻したら告白するんだ。
緊張で全身が強張る。
心臓の鼓動が速まり、頬が火照る。
紫月は勇気を振り絞って椅子から立ち上がった。
「神代さん、後ろを向いて髪を上げて」
「わかった。これでいいか?」
尻を軸にくるりと回転して背中を向け、礼佳は艶やかな黒髪をかき上げた。
ふわりと舞い上がるほのかに甘い匂い。
露わになった華奢な白いうなじ。
その上に垂れるほつれた髪の毛。
病的な白い肌に触れてしまわないように細心の注意を払いつつ、そろりそろりとシャツの襟を立てる。
赤いネクタイを襟で包み込み、震える手でなんとか結んでいく。
首に両腕を回して手元を確認しなければならないため、半ば後ろから礼佳に抱きつくような格好だ。
にやにやしながら見守っている3人のせいで、顔から火が出るようだった。
「は、はい、結べたよ」
「意外と難しいのだな。ネクタイだったか? 結び方は覚えたぞ。明日からは自分でやってみる。ありがとう、紫月」
「ど、どういたしまして」
礼佳がブレザーのボタンをかけている間、慶吾はウインクし、郁弥は肩をたたき、瑠璃は親指を立てた。
紫月は苦笑混じりにはにかんだ。
「よっしゃ、身だしなみが整って礼佳らしくなったことだし、ひとまず自己紹介といきますか。っていうか、俺たちって自己紹介なんかしたことあったっけ?」
「言われてみればないかもな。俺たち、まだ床を這って歩いてた頃からの知り合いだもんな」
新たな神代礼佳をクラスに迎え、4人はそれぞれ初めての自己紹介をした。
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