第2部 忘却と彼女

第1章

忘却と彼女1

 教室で談笑する4人。

 1人いなかったが、盛り上がりはいつもと変わらなかった。


 主に郁弥と瑠璃のやり取りが会話を盛り上げる。

 このクラスでは、礼佳はお姉さん的な存在だ。

 郁弥と瑠璃の喧嘩を仲裁したり、慶吾と一緒に勉強を教えたり、取れてしまったシャツのボタンを縫いつけたり、手作りのお菓子をおやつに持ってきたり。

 彼女はおっとりしていて、いつも優しく4人を支えている。


 このクラスの5人は家族も同然だ。

 誰か1人でも欠けると調子が狂う。


 以心伝心は輪だ。

 輪が途切れたら、心が通じ合うどころか日常に綻びが生じてしまう。


 礼佳がいないこの2週間、4人の内心には言い知れぬ違和感があった。

 何かがおかしい――日常の中でそう思う瞬間が何度もあった。


 ホームルームの時間が間近に迫り、瑠璃は頬杖をつきながら大袈裟に溜め息を吐いた。


「はぁーあ、礼佳は今日も欠席なのかな」


「だろうな。そういえば、紫月。昨日も礼佳の見舞いに行ったんだよな? 礼佳はどうだったよ? ちょっとは元気になってたか?」


「うーん、どうだろう。一応、会話はできたけどね。でも、やっぱりまだ退院はできそうになかったよ」


「そっかぁ。はぁ、そろそろテストだってのにさ。慶吾先生と礼佳先生にテスト勉強を手伝ってもらわなきゃいけないのによ」


「たまには自力で勉強しろよ。郁弥はやればできるんだからさ」


「いいじゃん。2人も勉強ができて一石二鳥だろ」


 がらり――教室のドアが開かれた。

 4人はその方向に注目したが、入ってきたのが先生だとわかるとがくりと肩を落とした。


「なんだなんだ、先生じゃ不満か?」


「もうー、先生、紛らわしいよー。瑠璃、びっくりしちゃった。礼佳かと思ったじゃん」


「悪いな。じゃあ、今度から女装してくるわ」


「そういうことじゃないってば。余計紛らわしくなるよ」


「しかし、真面目な話、いよいよ心配になってきたな。先生も見舞いに行ってやりたいが、先生が肺炎に感染したら他の生徒にうつってしまうかもしれないからな。どうだ、礼佳はいつ頃退院できそうだ?」


 紫月は曖昧に首を傾げた。


「わかりません。でも、まだ少しかかりそうです」


「そうか。まあ、気長に待つとしよう。何度も言うが、皆も体調には気をつけろよ。風邪だと侮っていると礼佳みたいに肺炎になってしまう可能性もあるからな。テストが近いからといって、わざと病気になって入院しないように」


「先生、それ、不謹慎ってやつだよー」


「そうですよ。礼佳は好きで病気になったわけじゃないんですよ」


「はははっ、悪い悪い。とにかく、元気が一番ってことだ。さて」


 先生は教卓の上に両手をついた。

 ホームルームが始まる合図だ。


 すると、先生の言葉を遮るように教室のドアが開いた。


 教室が静まり返る。

 5人の視線が1人の少女に集中する。


「礼佳!」


 沈黙を破ったのは瑠璃だった。

 それを皮切りに、教室は歓喜の声で満たされた。


「礼佳、退院おめでとう」


「紫月の見舞いのおかげだな。礼佳先生、テスト勉強に付き合ってもらうぜ」


「退院できてよかった! 瑠璃、礼佳がいなくてとっても寂しかったんだからね!」


「今日から復活だな。まだ少しかかりそうだと言われていたから驚いたぞ」


 しかし、紫月は釈然としていなかった。

 心の片隅にはまだ違和感が残っていた。


 あまりにも早すぎる。

 いくら体調が快方に向かったとしても、退院には至らないはずだ。

 あれだけ衰弱していたのだ、たった一日で登校できるようになるとは思えない。


 礼佳は戸惑いながら教室をぐるぐる見回している。

 まるで自分の席がわからないといった具合に。


「礼佳、座らないのか?」


 先生がそう言うと、礼佳は紫月の隣の空席に怖る怖る近付いた。


「こ、ここで合っているか?」


 礼佳が小声でそう確認してきたので、紫月は「う、うん」と小さく頷いた。


 どうしてしまったのだろうか。

 長らく登校していなかったせいで自分の席を忘れてしまったのだろうか。

 いや、いくらなんでもそれはあり得ないだろう。

 この教室の席は5つしかないのだ、どうやっても忘れようがない。


 礼佳が着席すると、先生は咳払いした。


「ホームルームをしたいところだが、今日はなしにしよう。先生は礼佳のプリントを職員室まで取りに行ってくる。1時間目は数学だぞ。宿題のプリントを準備しておくように」


 礼佳を除く4人は返事をし、鞄からプリントを取り出して机の上に広げた。

 1時間目の授業の準備が済むなり、慶吾と瑠璃は身体ごと振り返って礼佳をまじまじと観察した。


「ねぇ、礼佳ってば、不良になっちゃったの?」


「えっ?」


「だって、シャツは出てるし、ブレザーのボタンは開いてるし、ネクタイはしてないし。っていうか、なんでネクタイを首にかけてるの?」


「く、首にかけるものではなかったのか」


「首に締めるものだよー。礼佳、どうしちゃったの? まだ調子が悪いの? もしそうだったら保健室で休んだ方がいいよ」


「いや、平気だ。ただ、記憶がなくてな」


「えっ!」


 再び教室が静寂に包まれた。

 4人は鳩が豆鉄砲を食らったような表情のまま静止した。


「……なあ、これって、記憶喪失じゃね?」


「記憶喪失……あっ、瑠璃、テレビで見たことあるよ! ここはどこ? 私は誰? ってやつだよね。もしかして、瑠璃たちのことも覚えてないの?」


「あ、ああ。実を言うと、ここに辿り着くのも一苦労だったのだ。知らない人間には話しかけられるし、高校2年生の教室はわからないし、もうへとへとだ」


 紫月は昨日の見舞いで礼佳と交わした会話を思い出していた。


 神代さんが退院したらもみじの木を一緒に見に行こうと約束した。

 神代さんはこの約束も忘れてしまったのかな。


 紫月は小指を撫でた。


 紫月にとっては、名前を忘れられることよりも例の約束を忘れられることの方が悲しかった。

 指切りした特別な約束が無残に破られてしまったようで、無性に悲しかった。


 神代さんは悪戯をするような子じゃない。

 饗庭さんにそそのかされてちょっとした悪戯をすることもあるけど、ここまで大それた嘘をつくはずがない。

 そもそもあの体調から退院して登校していること自体がおかしい。

 きっと皆も僕と同じことを思っているだろう。


 少なくとも、4人は礼佳が記憶喪失であることを信じていた。

 それほどまでに彼女は変わっていた。

 まるで神代礼佳の皮をかぶった誰かだった。

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