第2章
日常と彼女3
放課後、駄菓子屋に立ち寄って慶吾の家で遊ぼうということになったが、紫月は家事と見舞いを理由に1人帰路についた。
居間に荷物を置き、白米を研いで炊飯器のタイマーをセットする。
ブレザーからジャケットに着替え、解けかけたスニーカーの紐を結び直す。
紫月は熟した田畑に挟まれた畦道を足早に歩いた。
母と礼佳がいる病院を思い浮かべると、自然と歩調が速まる。
黄金色の海の中に病院が見えてきて、ふと手ぶらであることに気付く。
そうだ、彼岸花を摘んでいってあげよう。
せめて彼岸花で秋を楽しんでもらおう。
紫月は畦道の脇にしゃがみ、彼岸花を2本手折った。
放射状に広がった雄しべと雌しべが、不可視の何かを支える手のようにふんわりとそそり立っている。
洒落た器のようだ。
到底器としての機能は果たしそうもないが。
1人通るのがやっとの細い畦道で近道をし、病院に到着した。
紫月は母の病室のドアを静かに横に開いた。
母は眠っていた。
ただ眠っているだけなのに、紫月の瞳には安らかな死が映っていた。
急に不安が込み上げてきて、紫月はわざと足音を立てて母のそばに歩み寄った。
「お母さん」
まつ毛が彼岸花の雄しべと雌しべのように持ち上がり、瞼がゆっくりと開かれる。
紫月は安堵してほっと一息吐いた。
「紫月、またお見舞いに来てくれたの? 毎日でなくてもいいのに。あなたはただでさえ家事で忙しいんだから。お母さんは寂しくないから平気よ」
「僕が平気じゃないんだよ。はい、これ」
器のような赤い花を手渡すと、母はこけた頬を弛緩させて微笑んだ。
「綺麗な彼岸花ね。もう秋か。紫月、一人暮らしには慣れた?」
「うん。ご近所さんが助けてくれるから生活しやすいよ。昨日はおばあさんに栗きんとんをもらって、今朝は汐華くんと一緒に焼き芋を食べながら登校したんだ。お母さん、今度は栗ご飯を持ってくるからね」
「うん、楽しみにしているわ」
母は満面の笑顔を形作ったが、その表情はどこか儚かった。
今にも消えてしまいそうで、紫月は視線を伏せた。
――もうすぐ母は死ぬ。
母を殺そうとしている病気は脳腫瘍。
母は病魔と闘い続けているが、脳の腫瘍は容赦なく肥大化している。
摘出は危険だということで手術はできない。
自宅療養も考えられたが、体調の急変を加味して入院という措置が取られた。
母にできるのは、精一杯余命を生きること。
もはや誰にも病気を治す術はない。
彼岸花を指先で弄びながら、母はどこともつかぬ虚空を見つめた。
「紫月、大変な思いをさせてしまってごめんね。お母さんが病気にならなければあなたも苦労しなくて済んだのに。お母さん、悔しいわ」
胸の奥がかっと熱くなった。
熱いものがどんどんせり上がってきて、視界が陽炎のようにゆらゆらと歪んだ。
紫月だって悔しかった。
「そんなこと言わないでよ。病気になったのはお母さんのせいじゃないよ。きっと治るから。僕がついているよ」
「ありがとう、紫月。お母さん、諦めないから。紫月と一緒に頑張るから」
母の目元は涙で濡れていた。
紫月はつられて泣きそうになったが、唇を噛んでどうにか涙をこぼすまいとした。
僕が泣いたら駄目だ。
僕はお母さんよりも強くいないと駄目だ。
僕がお母さんを支えないといけないんだ。
僕が折れたらお母さんも倒れてしまう。
紫月はベッドから後退った。
「お母さん、もう行くね。神代さんのお見舞いもしないといけないから」
「うん。彼岸花、ありがとう」
病室のドアを閉めて、紫月は壁に背中を預けた。
それから、少しだけ泣いた。
嗚咽を押し殺して泣いた。
涙が止まらなかった。
余命はあと1週間持つかどうか――心に突き刺さったガラスの欠片を思い出した。
小さな傷が疼いて、嗚咽で肩が震えた。
母の死は17歳の少年にはあまりにも酷だった。
両親を失う悲しみにはとても耐えられそうになかった。
ジャケットの袖で瞼を拭い、深呼吸する。
彼岸花の手のひらの上で水滴がきらきらと輝く。
泣いていたら神代さんに笑われてしまう。
笑わないといけないのは僕の方だ。
僕が笑えば神代さんも笑ってくれる。
紫月はもう一度よく瞼を拭い、礼佳の病室に足を踏み入れた。
「神代さん、こんにちは」
「あっ、紫月くん、こんにちは。今日もお見舞いに来てくれたんだ」
礼佳はか細い声でそう言った。
相変わらずしゃべるのは辛そうだったが、端整な顔には柔和な微笑みが浮かんでいた。
それを目の当たりにすると、先ほどまでの悲しみは嘘のように霧散してしまった。
「彼岸花を摘んできたんだ」
「わぁ、ありがとう。花瓶に挿しておいてくれる?」
窓際の花瓶にはコスモスが飾られている。
昨日の見舞いに持っていったコスモスだ。
その中心に彼岸花を挿す。
薄紫色の中で赤色が一際存在感を放つ。
礼佳は上半身を起こして花瓶を眺めた。
「もみじの木は紅葉したかな」
「もみじの木?」
「神社の大きなもみじの木。私、あの木が好きなんだ。あの木が紅葉すると秋になったんだなって実感できるんだ」
「うん、僕もそう思う。安心して、もみじはちゃんと紅葉しているよ」
「よかった。今年はまだ一度も見ていないから心配だったんだ。紫月くん、私が退院したら一緒に見に行こうよ」
「もちろんいいよ。じゃあ、早く元気にならないとね」
「うん。約束だよ」
小指を差し出してきた礼佳。
須臾の躊躇いの後、紫月は小指を彼女の小指に結びつけた。
絡み合う小指。
指切りをしたせいか、この約束がひどく大切なものであるように思えた。
紫月は顔が熱くなるのを感じた。
礼佳の笑顔が眩しくて直視することができなかった。
「きょ、今日はもう帰るね。早く退院できるといいね」
「うん。彼岸花、ありがとね」
病室のドアを閉めながら、紫月はふと窓際の彼岸花を見やった。
不可視の何かを支える彼岸花。
紫月には彼岸花が魂を支える器のように思えてならなかった。
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