第1部 日常と彼女

第1章

日常と彼女1

 カーテンの隙間から差し込む太陽の光で目が覚める。


 朦朧とした紫月の脳裏を過ぎったのは死だった。


 紫月は死と共に眠り、死と共に目覚める。

 夢の中でも死にうなされる。

 目が覚めてそれが夢であることに気付くと、一時の安心感に包まれる。


 紫月は布団から起き上がり、洗面台で顔を洗った。

 意識が冴えると、食欲が湧いてきた。


 炊飯器に残っていた昨日の夕食の白米をしゃもじで茶碗によそい、同じく残り物の味噌汁を火にかけてから汁椀に注ぐ。

 白米を電子レンジで温めている間、味噌汁をすする。

 やはり我ながら美味しい味噌汁だ。


 ちんと鳴った電子レンジを開け、熱くなった茶碗をつまんでテーブルの上に置く。

 白米から濛々と湯気が立ち上る。

 冷蔵庫から梅干しが入った小さな壺を取り出す。

 白米の上に梅干しを添え、湯気に邪魔されながらも箸で口の中へとかき込む。


 茶碗が空になると喉が渇いた。

 再び冷蔵庫を開けてお茶を取り出そうとすると、ラップにくるまれた黄色い物体が目についた。

 近所のおばあさんがおすそわけしてくれた栗きんとんだ。


 そういえば、栗もいっぱいもらったんだった。

 皮を剥くのは大変だけど、いつか栗ご飯でも作ろうかな。

 お母さんに持っていってあげたら喜んでくれるかもしれない。


 朝食を済ませた紫月は居間へと移動し、物干し竿にかけておいた制服を下ろした。


 染み1つない白いシャツ、少しばかり丈の長いスラックス。

 高校生の証である赤いネクタイを締め、緩くなってきた靴下を履く。

 最後にブレザーに袖を通す。


 着替えが終わり、紫月は台所に戻った。


 作り置きしておいた弁当とお茶の入った水筒を鞄に詰めて肩にかける。

 教科書とノートの重さも相まって、ずっしりとした負担が肩にかかる。

 玄関でスニーカーの紐を結び、よろめきながら立ち上がる。


「行ってきます」


 行ってらっしゃい、と返ってくることはなかった。

 一人暮らしをしているのだ、返事がないのは当然のことだ。


 一人暮らしが始まってからどれくらい経つだろうか。

 もう忘れてしまったが、今となってはあれほど苦戦していた家事にも慣れてしまった。


 料理はもちろんのこと、洗濯もしなければならない。

 高校生であるため、毎日となると大変だ。

 たびたび買い出しにも行かなければならないし、週に一度は掃除もしなければならない。

 代わりに家事をこなしてくれていた母のありがたさを痛感したものだ。


 紫月は大きな欠伸をした。


 通学路は畦道だ。

 田畑に取り囲まれたそこは、まるで身分の高い人間のみが通ることを許された特別な道のようだ。


 そよ風が吹き、黄金色の稲が一斉に波打つ。

 稲穂がぶつかり合い、さらさらと耳に心地いい音を奏でる。

 目を閉じれば、山奥の田舎でも海を感じることができる。


 早朝から畑仕事に勤しむ老夫婦に挨拶をし、紫月は秋に染まっていく景色を見渡した。


 絵の具をこぼしたキャンバスのような山。

 微動だにせずに佇む案山子。

 畦道の傾斜に慎ましやかに咲き誇る彼岸花。

 橙色の宝石をいくつもぶら下げた柿の木。

 葉が落ちて実だけとなり、重たそうに枝垂れている。

 紫がかった無花果。

 熟して割れたそれは、赤く蠱惑的な中身を剥き出しにしている。


 自然は豊かだが、この村は小さい。

 過疎化と少子高齢化が進み、どんどん衰退しつつある。


 高校までの畦道を半分くらい進んだところで、背後から駆けてくる足音が聞こえた。

 誰かはすぐに予想がついた。


「おっす、紫月」


 紫月の肩を小突いて立ち止まったのは、金髪の少年。

 汐華郁弥しおばなふみやだった。


「おはよう、汐華くん」


 田舎では非常によく目立つ金髪だが、郁弥は不良ではない。

 この髪は隣町の美容院で染めてもらったらしい。

 ただでさえこの田舎にはブレザーが似つかわしくない。

 金髪だともっと違和感がある。

 村の中で一人だけ都会の雰囲気を纏っている。


 郁弥はもぐもぐと咀嚼していた。

 両手には何やら細長い物体が握られていた。


「何を食べているの?」


「ああ、途中で焚き火をしていたおばあちゃんにもらったんだ。1つでいいって言ったんだけど、育ち盛りなんだからいっぱい食べなさいって2つも渡されてさ。だから、1つやるよ」


 郁弥が差し出したのは焼き芋だった。

 新聞紙に覆われたそれはまだ熱いくらいだった。


「ありがとう」


「いや、逆に助かったわ。朝っぱらから腹を壊すところだった」


 新聞紙の包装を外して炭化した皮を剥くと、稲と同じ色が顔を覗かせた。

 よく火が通って柔らかくなった薩摩芋はほんのり甘かった。


 田舎には秋の味覚が身近にある。

 近所から栗きんとんをおすそわけされることもあれば、こうして登校中に焼き芋をもらうこともある。


 焼き芋を頬張りながら歩いて15分もしないうちに、紫月と郁弥は校門を通過していた。

 まあ、高校といっても小学校と中学校が合併された校舎なのだが。


 過疎化と少子高齢化に伴い、子供の数は減少している。

 どの学年もクラスは1つしかなく、人数は10人にも満たない。


 2人は階段を上って高校2年生の教室を目指した。


 2階建ての小さな校舎であるため、少人数ながら小学生と中学生のはしゃぐ声が廊下に響いている。

 それとは対照的に、高校2年生の教室はしんと静まり返っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る