1-2. 最近は地上のほうが、地獄が多くないか

 石に躓き転びそうになる体を何とか立て直し、荒い息を吐きながら必死に駆ける。


 なんで

 なんで

 なんでなんでなんでなんで!


「ちょっとお待ちよお嬢ちゃーん」

「少ししたら帰したげるからぁ、一緒に遊ぼうよぉー」


 甚振いたぶるような声とは対照的な、軽快な足音が後ろから追いかけてくる。森の中を走ることには慣れているが、15の少女と喧嘩が仕事である男の運動能力の差は如何ともしがたく、徐々に、徐々に距離が狭まってくる。


「意外と逃げ足はええでやんの」

「ちいせえ村だからな。村長の娘でも森に入ってんだろ」


 男達の言葉が聞こえる。彼らの声に焦りなどはない。どうせいつか捕まるのは当然の事であり、今はその前のちょっとした余興のつもりなのだ。


 どうして!?


 答えの無い疑問が何度も頭を駆け巡る。


 今日もいつも通りの一日だった。東の稜線が輝く頃に目を覚ますと、ベッドを降りて太陽へ祈りを捧げ、早起きな母と一緒に朝食を用意し、後に起きてきた弟と父と4人で卓を囲む。変わり映えのしない朝食に文句を言う弟を小突いた後、畑仕事の準備をする。自前の畑には瑞々しい野菜がり、夕方まで収穫作業に時間を費やし、西の森に橙色の太陽が近づく頃に父の号令で仕事を切り上げた。

 今日採った野菜が食卓に並び、家族皆で地神に祈り、我先にと匙を動かす光景を想像してにまにまと笑っていた。


 ありきたりの、よくある一日の終わり。そのはずだったのに。

 太陽神が眠りについた隙を突いて、イナゴのような黒い集団が、村に襲い掛かったきた。


 村の入り口に建てられた木組みの門を踏み壊して押し入った盗賊たちは、門の近くの建物を派手に壊し、脅し、村長宅へ踏み入ろうとした。

 村長である父は追い立てられた村民の話を聞き、もうじき到着するであろう盗賊たちから離そうと私と弟を外へ逃がした。

 しかし運悪く数人の賊に見つかり、途中で走ることを止めたべそをかく弟と引き離すため、私は弟を岩の影に身を潜ませて明後日の方角に逃げたのだった。



 理由はあるが根拠のない自信が、私にあった。

 それが仇になった。悔しいけど、そういうことだろうと思う。


 健康で、森に慣れた、村でも指折りに足の速い私なら。卑しく、祈りを口にしたことも無い盗賊相手ならば、逃げ切れるんじゃないかって。

 だって父は言った。「地神曰く、健全で善良な精神は、俊敏で強靭な体に宿り、健やかな体には加護が宿る」って。であるならば、私が賊どもを撒けないはずがないと。しかし。


「ほらほらほらー。追い付いちゃうよー!」


 げらげらと楽しそうに笑う男達。

 速い。あんなに下卑た人間なのに、なんで。

 神々に祈り、地神の恩恵を受けた何よりの証拠である、心身共に健全なこの身体が、私の誇りだったのに。


 どうして!?


 どうして健全で善良な私より、野蛮で愚劣な奴らが森を速く駆けるのか。地神は、太陽神は彼らが健全だとでも思っているのか。

 15の誕生日に母から譲り受けた銀製の首飾りが揺れる。美しい地神の横顔が小さく彫られた首飾りは私の宝物であり、拠り所でもあった。


「いや、そろそろ面倒だろ」


 そんな声と共に何かが私の左足を打つ。たまらず地へ転んだ私が一瞬意識を飛ばし、我に返って反転し起き上がろうとした瞬間。


「つぅかまあぇた!」


 私の胴体に男の一人が馬乗りになった。


「楽しかっただろ鬼ごっこ? なら次は俺らを楽しませてくれよ」

「もう一人ちっこいのいなかったっけ?」

「たぶん弟だろ。ほっとけ」


 言いながら嗤う3人の男。組敷かれた私の両手を残りの2人が押さえつける。

 寝る前に必ず握ってお祈りしていた首飾りは、私の顔の横に千切れて転がっていた。

 その時、森に差し込んだ月の光に地神の横顔が一瞬輝く。

 それを横目で目の当たりにした私の中に一筋の希望が差し込み、束の間湧きあがった勇気をあらん限りに振り絞った。地神に与えられた勇気を。

 あれだけ毎日祈り続けていた私に。今この窮地にこそ、ご加護を。


「――っ」

「お、はいはい。がんばれがんばれー」


 しかし力をどれだけ込めようと押さえつけられた体はピクリとも動かず、男のまさぐる手も止まらない。強かったはずの私の体から、次第に力が抜けていく。


 どうして


 私たちはどうして、気づかないふりをするのか。

 神は平等なのに。


 神は優しくなどない。

 卑怯な人間ほど賢く、善良な人間ほど運が悪く、健全な人間でなくとも足は速い。


 涙があふれる。あれほど毎日磨いていた首飾りが急激に色褪せる。

 上衣を乱暴にはぎ取られる。布の破れた音は聞こえなかったが、自分の肌が外気に触れたのはすぐわかった。森の冷たさに、危機感よりも諦念よりもまず私の中に湧きあがったのは怒りだった。

 見下ろす男にも、この森にも、どこかで震えている弟にも。そして神にも。



 ―もう神には祈らない。頼らない。誰にも頼らない。


 最後の最後に渾身の力を込めて跳ねるように身体を持ち上げた。私の喉から産声以来初めて出すような咆哮があふれた。


「うっお!」


 馬乗りになっていた男が驚いた声を上げ腰が一瞬浮く。腕の拘束も緩んだ。その隙に私は再び反転して足に力を込め前方に転がって抜け出そうとする。


「ってめぇ!」


 しかしそこまでだった。

 上から強い力で頭を押さえつけられた私は顔から地面に墜ちた。


「すげえ力じゃねぇかよ。かわいくねえな!」

「火事場のなんとやらだな」


 男の声を聞きながら、砂を噛む。押し付けられた土に涙が染み込んで暖かい。

 終わりだ馬鹿野郎。


 神の馬鹿野郎。


 生まれて初めて神への罵倒を心の中で呟いた時だった。


「――時間切れだよ」


 私を押さえつけた3人とは別の声が、森の中から聞こえてきた。

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