*14 消えた嫁と嗤う鴉

「石を投げたり、怒鳴ったりしないから、あなたはこわくないよ」


 出会った時、最初に言われた言葉が、いまでも慶光の胸に残っている。

 四つになるかならぬかというほど幼い子どもが、暗い蔵の中に独りきりでいた。汚れた、痩せた細い腕をしていて、慶光を見ても怖くないと優しく弱く笑った。その笑みの儚さに、慶光の胸は打たれたと言える。

 村で大人と認められる十八になればその子どもはどうなるのか。暗がりでわかるほど痩せたその子どもを、自分の手でしあわせにしてやりたい――ヒトに対して初めて慶光はそんな気持ちを抱いた。


『ヒトなぞ、喰うにも値せぬ卑俗なものと思うておったのにな……』


 ヒトは勝手な生き物だ。神に遣わされて自分が慈悲を与えて救っても、勝手に人食いだと思い込み、挙げ句、この先の自分たちの利益ばかり考える。しかもその犠牲を力が弱い者に押し付け、自分の機嫌を取れと言う。

 弱いものに白羽の矢を立て、追い詰め、その命を差し出させる。いつの世になっても、ヒトの卑俗な性分は慶光に憤りを覚えさせた。


(――だからあの晩、あまりの身勝手さに腹を立てて……村ごと燃やしてしまおうか、とも考えておったのだ)


 日照りが続けば見目麗しい若い女や男を差し出し、どうにかしてくれと嘆いてばかりいる村人たちに、そのように命を無為にするのではない、と戒めを与えようと、あの晩の頃の慶光は考えていた。そのような勝手こそ、神に戒められかねないと今なら冷静に考えられるのだが。

 どこに火を点けたものかと村の上空を飛び回っている時、あの泣き声を聞きつけたのだ。

 そうして出会った幼子があまりに不憫で愛らしかったこと、そして初めて自分を豊穣の神の使いだとうがった見方をせず認めてくれたこと。それらが何より嬉しく、慶光は村に火を点けるのを思いとどまった。そして戯れに嫁に向かえてやろうと約束をしたつもりだったのだ。

 よくある折檻の一環で、あの幼子は蔵にいたのかと思っていた慶光であったが、神通力で時折様子を窺う限り、常に彼はそこにいた。

 ろくな食事も与えられず、忌み子と呼ばれ、まるで彼がこの世のすべての災厄の責任があるかと言わんばかりに、彼は一身に背負わされている。その状況に我慢がならず、どうにか彼を合法的に村から出さる機会となったのが今回の飢饉だった。


(格好の機会だ、などと思うたなんて、神の使いとしてあるまじき考えであろう……しかし、忌一を見捨てる方が儂は我慢ならなかった)


 そうして嫁という名の生贄として忌一を蔵から、村から出すことが叶い、屋敷に招き入れていまに至っている。

 古来より、ヒトの子が正式に神やそれに準ずる者の嫁になるためには、互いの本当の名を呼び合い、口を吸い、まぐわいを行って交わらなくてはならないとされている。

 忌一の名は本当のそれでないことは承知していたが、本人も本当の名を知らない。その上、読書きもできない。何とか最近では読書きはできるようにはなったが、自分の本当の名を見つけられるほどの知識はまだないため、今回やむなく慶光がお忍びで村へ向かったのだった。


『いま帰ったぞ』


 村はずれからさらに山奥にある祠の中に神通力で入り、屋敷に向かう。玄関の土間から奥へ声をかけたが、「はーい」と、答えながら出てきたのは従者の馬食のみ。あの小さな影がどこにも見当たらない。


「おかえりなさいませ、主様。忌一様のお名前はわかりましたか?」

『いや、あの幟はもうないようでな……』


 ご法度すれすれのことを試みても成果は得られず、慶光は手ぶらでの帰宅となった。

 なんと忌一に事情を話せばよいだろうか……と、思案していたのだが、その姿が見えない。


『……おい、忌一はどうした?』

「忌一様ですか? あれ? お庭でお花摘みされていたはずですけど……」


 馬食の言葉を聞くや否や、慶光は玄関を飛び出して屋敷の裏を回って庭に向かう。しかし、そこにもあの小さく儚い影はない。

 忌一に神通力を与えてはいるが、まだ生身の人間であるため、ほんのひと掬いほどしか与えていない。せいぜい天気を当てたり透視をしたり、失せ物のありかを与えるくらいしかできないが、下等の妖を寄せ付けることはない。だがそれは、屋敷の外では弱くなってしまう欠点がある。

 屋敷の外に、忌一がひとりで出てしまうほど愚かではないことは慶光も馬食も良く知っている。何より忌一が屋敷周辺の妖を怖がっていることを知っているからだ。

 何かがおかしい……と、慶光が庭に佇んで腕組みをして考え込んでいるところに、馬食が駆けつけ、忌一の不在に驚いている。早速馬食が声をかけながら捜し始めているが、まったく答えがない。


「忌一様ぁ! 忌一様ぁ! ……主様、見当たりません……」


 慶光もまた神通力で屋敷周辺の気配を探るのだが、忌一の影も見当たらない。いままで屋敷から出したことがない彼が、まったく声の届かないところへひとりで行くだろうか? しかも、この屋敷を一歩出れば妖がうようよと寄ってくるかもしれないのに。

 いやな予感と胸騒ぎがする。慶光は焦れながら眉間にある心眼に神経を集中するも、一向に忌一の気配を感じ取ることができない。


『おかしい……これほどまで気配も姿もないとは……一体どこに……』

“おやおやぁ……何か捜しものかぃ、慶光”


 庭先で忌一の気配を探っている慶光の頭上を、大きく旋回しながら話しかけてくる黒い影がある。馬食と共に見上げたそれは、やがてゆったりと羽ばたきながら近づいてき、やがて庭の大きな松の木にそれは停まった。それはあの忌々しい鴉だった。


『お前……! 忌一をどこにやった!』

“いやだねぇ、ワシを見たらはなからワシが悪いと決めつけて……まさか、ワシがさらったとでも言うのかい?”

『それ以外に何があるという!』

“あの子が自ら帰りたがった、とは考えないのかね、お前は”

『……なんだと?』


 せせら笑うように告げる鴉の言葉に慶光は耳を疑ったが、真っ黒な鴉の目を神通力で見透かそうとしても、何も偽っていないように見える。

 ならば、本当に忌一は自らの意思でこの屋敷を出ていったというのか? なんのために?

 名前を知り得たら祝言をあげる約束だった。それは忌一も楽しみにしている様子だったし、慶光はそれをいまも信じて疑っていない。それなのに、屋敷を出て村へ帰ったというのだ。


『忌一はひとりで屋敷の外から出て村へ帰れるわけがない。儂が力を使ってこちらへ招いたのだから』

「では、どうして外に……」

『誰か、力を使えるものが手を貸さねばそんなことは……』


 そこまで口にしかけて視線を向けたのは、挑発するように慶光たちの周りを羽ばたいている鴉。その眼は何か含みがあるように歪み、薄く笑っている。それが何より慶光の癪に障る。

 口元に手を宛がい考え込んでいた慶光は、耳障りな羽ばたきをしている鴉の首を掴んで引き寄せ、問いただした。


『おい、貴様……忌一をどこにやった』

“し、知ってどうする……もうあの子は村に返った。お前の嫁ではなかろう”

『忌一があの村でどんな目に遭わされていたのか知らぬのか! 忌み子と呼ばれて蔵に閉じ込められ、ろくな衣食も与えられなかったんだぞ! その上儂に喰われて村を救えと命まで棄てさせられた! そんなことを強いるような連中の許へ返して、あいつが息災でいられるわけがない! 鴉よ! お前、何を忌一に吹き込んだのだ!』


 鴉の首を掴んで揺さぶりながら問詰める慶光に、鴉は不気味にくちばしをまげて嗤って答える。その言葉に、慶光は身体中の血が煮えたぎるほどの怒りを覚えた。


“なぁに、あの子の力を村のために使ってやったらどうだい、と言ったまでさ。そしたらあの子はろくにワシを疑わないでねぇ……村まで連れて行ってくれと言ったから乗せてやっ……”


 鴉の言葉が言い終わるか終わらないかの内に、慶光は掴んでいたその首を力のまま振り回し、地面に強く叩きつけた。醜い何かが潰れたような悲鳴が聞こえたが、構うことなく慶光は鴉を揺さぶり起こしてねめつける。


『何故そのようなことをした! 何の恨みが忌一にあるというのだ! あいつは儂の大切な嫁なんだぞ!』

“だからだよ、慶光”


 揺さぶられ焦点の合わない目を武器にゆがめながら鴉はそれでも嗤い、慶光を焚きつけ煽るような言葉を吹っ掛ける。


“あの子がお前の大事な嫁だからさ。半端ものの半獣のくせに神の使いだと言われていい気になっている、お前の嫁だから、奪ってやっただけのことだ”


 嘲笑う鴉の横っ面に慶光の拳が炸裂し、更に追い打ちをかけるように首根っこを掴んで再び地面にたたきつけられるまで瞬きほどの時間しかなかった。鴉はもはや悲鳴を上げる間もなく意識を失って泡を吹いていた。

 ぐったりとしてしまった鴉を地面に放り出し、慶光はそのまま屋敷の門の方へ向かう。


「主様、どちらへ?!」

『儂の嫁を取り戻してくる。その馬鹿はあの松の下にでも括りつけておけ』


 そう馬食に言い置くと、慶光は地を蹴って飛び上がり、そのまま目にも止まらぬ速さで中空を駆けるように飛んでいく。

 光よりも速く向かう先は、彼が誰よりも大切に思う小さな嫁のいるところだ。



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