hexa
アルゴン
それから数日後。街を歩きながらクリプトンは、あの日見た夢を思い出していた。
小さな肩、華奢なのかもしれない。優しい髪、何を優しく感じたのだろう。丸っこいシルエットか、細い線か、光を含んだ黒か。
あの光は、この街のものではないのは確かだ。永遠の夜に灯る人工の昼など、本物には到底及ばない。何もかも。しかし、永遠の夜の街、プッイで生まれ育ったクリプトンは、日常で見る本物の昼の光を知らない。そのため、あの夢で見た光がどこの何なのか、彼には推測のしようがない。
先の見えないビルの頂上に問う。この街は、いつから昼が来ないのだろう。自分は、なぜ無職になったのか。ハイドロが自分の前に現れた意味は。どうして、あんな夢を見たのだ。
不戦敗の平和に依存していた頃の自分であれば、考えもしなかった疑問が次々と湧く。
「クリプトーンッ!」
埋め尽くされた思考のテーブルを蹴散らすように、聞き慣れた声が後ろからクリプトンを殴った。
「ぐえ」
振り返るより早く、首元のフードが引っ張られる。
「大変だ大変だ!」
いやに、あるいはわざとらしく、ハイドロの声が騒いでいる。
「落ち着けよ。あと、首絞めんな。息が……」
「皮膚呼吸で何とかしろ! それより大ニュースなんだよ!」
無理難題を押し付けながらハイドロはフードから手を離す。
「Arg18が、ステージ2に繰り下がりやがった!」
彼は唾を飛ばす勢いで熱弁しているのだが、クリプトンの方は首を傾げる。
「何それ? 人の名前? 美味しいの? どんだけ凄いこと?」
熱量の違いをじれったく思いながらも、ハイドロは何とか例えの棚を探し回った。
「α線がPbをすり抜けるぐらいヤベえことだ!」
「分からせる気ねえだろ!」
ハイドロを一旦落ち着かせ、クリプトンは彼に説明を求めた。
「誰がステージ2に降りてくるって?」
「Arg18」
「誰だよ」
「忘れたのか? コイオリードの最強五人の中の一人だよ! 小さくて若いやつ」
クリプトンの頭に、何回りも身体が小さく、言ってしまえば子供のような顔が浮かぶ。
「ああ思い出した。そんな名前だったんだ」
「あれ、言ってなかったけ?」
「聞いてないね」
「わり」
頭を掻くハイドロ。
「それでだよ、今から行くぞ、戦場」
「お前はいつも突然だから、まあいいけど。そいつがいると何か変わんの?」
強敵ならば覚悟はもちろん必要だが、広い戦場だ。必ず接触するとも限らない。
「楽観的だなクリプトン。そもそも、ステージ3を庭にしてるArg18がステージ2に降りて来た理由は何だと思う?」
ハイドロがこんなにも興奮しているということは、Arg18はハイドロのように後輩教育のためにステージ2へ降り立っているわけではあるまい。戦闘の舞台としてArg18が降格してきたということだろう。
「降格のメリットは、戦場で同等に戦えるってことだよな」
「そう」
「格下を殺すため?」
「正解。つまり、お前は格段に強い敵と戦うことになる。レベルが下がるっつったて能力が落ちるわけじゃない。レベルは所詮、客観性を示すための便宜だからな。コイオリードはArg18を使って敵国の戦闘員全滅を目論んでる可能性がある。確かにあいつの力なら、プッイの戦闘員の五十人、百人、お茶の子だろ」
「……マジか」
そこでクリプトンはふと考える。ステージを下げるにはレベルを下げる必要がある。では、レベルを下げるためには?
ハイドロが最初に説明していた内容を思い出してみる。
――味方を殺るとマイナスだから気を付けろよ――
「気づいたようだな、クリプトン」
ハイドロが投げ捨てるように笑う。
「自分の味方を……殺した?」
自分の味方を殺害し、わざとレベルを下げ、ステージ2に降りてきた。それが事実ならコイオリード、ひいてはArg18は、もはや人ではない。それこそ、悪魔。
「コイオリードはそういう国なんだよ。勝つためならどんな手段も厭わない。これまで以上に用心することだ」
リンを撃ったコイオリードの戦闘員を思い出す。暗い劣悪環境で何時間も待ち伏せし、自分たちはガリガリに痩せ細っても命令を遂行する彼ら。あの時の戦慄を再現してしまう。
クリプトンの中でArg18のイメージが変わった。小さく子供のように見えていた顔は、今ではバケモノである。目が二つで、口が一つで、鼻が一つの、バケモノ。
「そのArg18の戦場参加が近い。その前に、できるだけレベルを上げておいた方がいいと思ってな。だから早めに行こうと言ってるんだ」
クリプトンは納得する。
「分かった。今すぐ行こう」
震えている場合ではないと、クリプトンは膝を打った。
いつも通りのビルの廊下。前を歩くハイドロの背を見つめる。自分よりは低い背丈に、筋肉も付いていない。力で握り潰そうと思えばできてしまいそうなのに、どうしてもそれをできるとは思えない。理由は、仲間だから、だけではない。自分よりも小さな背に、自分よりも大きな何かを抱えた彼へ、ひれ伏すようで、かしずくような思いを抱いているからだろうか。ただ単に、彼の他を凌ぐ計算能力を敬重しているからだろうか。
Arg18のポートレートを前に、二人で足を止める。写真の中の彼は二人を大きな瞳で睨みつけている。
「アルゴンの戦う理由を知ってるか」
静かにハイドロが聞く。
「そんな呼び名があんだな。そっちのが呼びやすいや」
アルゴン。
口の中で呟いた。不思議としっくりくる。
「アルゴンの戦う理由ね……強くなりたい、とか? 身長が小さいことを気にしてて、とか」
思いつくままに放り出してみる。
「……人を探してるって噂だ」
クリプトンはハイドロのゴーグルを見た。目は見えないが、その奥は、確実にアルゴンへ向けられている。
「それって、お前と同じじゃないか」
ハイドロが、このタイミングでこの話をするのには理由がある気がする。クリプトンは考えてみる。しかし、ハイドロのように上手く計算式が見つからない。
「でも、基本的にコイオリード側の情報は不確かだ。とにかく未知数だと思った方がいい」
クリプトンを見上げるハイドロ。
「今日は大丈夫なはずだが、もし、アルゴンに遭遇したら、殺そうなんて考えるなよ」
「どうして? もたもたしてたら殺されるだろ」
ハイドロのことであるから、すぐに行動するよう助言してくれると思っていた。クリプトンは少し驚く。
「細かい説明は今度する。今はこれだけ覚えといてくれ」
「じゃあ、遭遇したらどうすりゃいい?」
「俺の指示に従ってくれれば問題ない。絶対に、勝手な行動をしないでほしい」
頷く以外の選択肢を認めない雰囲気に、クリプトンの頭は縦に動かされる。
「ようし! じゃあ行くぜ!」
リフレクトするように明るくなったハイドロの声でクリプトンの足は押し出された。
コイオリード側の不確かな情報を、ハイドロはどのように集めたのか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます