悪魔が連れてきた幻想

 クリプトンは液体でずぶ濡れた髪をかき上げ、久しぶりの地面にドサッと座る。何かから解放された感覚と、体力の枯渇から。

「クリプトンは、頭と力を同時に使うと動けなくなるな」

 戦闘機から降りたハイドロが恒例の分析を始める。悔しいが、言われた通りだった。

「そこが、これからの課題だな」

「……うるせ」

 小さな声で反発してみるも、心では受け止めた。




「……可哀そうだよな。勝手に遺伝子操作されて、勝手にコテンパンにされるんだ。動物たちは何を思ってるかな」

 声を低めたハイドロを見ると、彼は弾けた死骸を見ていた。散乱するのは毛や、体液や、皮膚だけではない気がする。

「動物たちの悪夢に、人間が出てこないよう願うのは、人間のエゴかな」

「お前は詩人か?」

「大昔の人が、そんなことはないと願ったんだ」

 ハイドロの背は、どこか寂しそうに見える。


「クリプトン」

「ん?」

「俺は、お前たちの悪夢……悪魔になっては、いないよな?」

 背中越しに見るハイドロの顔は、やはりゴーグルで見えない。

「何だよ急に。お前が悪魔だって?」

 髪が舞い上がる勢いでハイドロが振り返った。クリプトンは言葉を取り落とす。

「違うよな? な?」

 大股でクリプトンへにじり寄るハイドロ。とにかく訳が分からないが、ハイドロの一心で乱れた口調に、表情に、クリプトンは気圧される。

「ハイドロが何を不安がってるのか知らんが、俺は、お前を悪魔だと思ったことはねえよ」

 心から思ったことを伝えた。それが、今のクリプトンの答えだ。

「……だよな。うん、分かってる。ありがとう」

「お前、変わってんな。言うべき時に言うべき言葉を言わないくせに、どうでもいい時に礼を言うって」

 皮肉を言ってやると、ハイドロは安心したように笑った。その口元で、クリプトンまで詰まっていた何かが喉を下がった気がする。

「これが、溜飲を下げるってやつか」

 クリプトンの独り言に、ハイドロは右頬を上げただけだった。




 クリプトンはハイドロについて少々気になっていることが幾つかあった。タイムリミットまでは時間がある。意を決して聞いてみることにした。辺りはズタズタにされた自然が横たわっているのみで、敵の気配はない。

「ハイドロには、探してる人がいるって言ったじゃん?」

「うん」

 身体と共に飛び散った生命の何かを、二人並んで眺める。

「ハイドロが見つけられないなら、相当……難しいんじゃないか?」

「やっぱそう思う? それは俺も必要以上に、十分、分かってるよ」

「それなら何で探し続けるんだ? そんなに大事な人?」

「うん、大事。超大事。俺にとっては大きすぎる存在なんだ。分母が支えきれなくて、括線が崩れるほどな」

 例えが変わり種過ぎてクリプトンには理解不能だった。

「“あいつ”は俺の隣にいた時から、とにかく面白い人だった。あんなに純粋で、水晶より透き通った心をしているのに、俺でも予想できない言動を次々と発生させるんだ……だからかな、“あいつ”がいなくなってから、“あいつ”の経路が予想できなくなった。もう何年経ったか数えるのもやめた。どんだけ計算しても、あいつの所在が割り出せない。これじゃ、いつまで経っても出会えない」


 出会えない。


 その言葉に、クリプトンは違和感を持つ。「出会う」とは、何となく、初めて対面する時に使うような言葉である気がする。しかし、ハイドロほど好学でもない彼の頭では、それは思考のテーブルへ上げられる前に消えた。

「出会いは、計算するもんじゃないだろ」

 思いつく限りの、自らの思想を取り出す。少しでもハイドロの役に立つような。

「お前に何が分かる」

 あ、と言って、口に手をやったハイドロ。クリプトンも彼を見つめる。

「いや、すまん……そんな意見もあるよな。それが人間だから」

「……ううん。俺も、何も分かってないくせに、もの言った」

 居心地の悪い沈黙を、木の葉の触れ合う音がかき消した。ここが森だったことを今更ながら思い出す。

「それを、俺が手伝うことはできないのか」

 クリプトンはハイドロを救いたかった。救えなくとも助けになりたかった。何でもできる彼の、唯一できない部分を自分が補えたら。彼に、長い長い旅の終着点を見せてあげられたら。

「ありがとう。でも、“あいつ”の見た目も声も分からないから、説明のしようがないんだ。だから、これは俺が一人でやるしかない」

「分からない? それはどういう……」

 尋ねかけて、やめた。自分は今、自分ではどうしようもない広大無辺な出来事を前にしているような気がする。小指一本では流れ星を打ち返せないように、人間では太刀打ちできないような、全宇宙が鎮座して進めない疑似体験。その幻想を、ハイドロの横顔から受け取った。

 宇宙とは他人事のようで自分事である。包含されていることを、今も、時折感じる。よって、ハイドロの纏う無関係が自分の此岸に思える。自分にも探していた人が、探していたはずの人物が、いたのではないか。



 小さな肩が、優しい髪が、溢れるほどの差し込む光に包まれる。こちらを振り返るのは……



 閉ざされていた扉が開くように、広がった映像。


 目を瞬く。今のは?

 クリプトンは夢を見たのだと思った。ハイドロに出会うまで、自分の腐っていた人生に目的などなかったし、そんな大風呂敷を広げる暇もないほど明日に必死だった。

 寝ずに見る夢だと思った。

「そろそろか」

 ハイドロの声で呼び戻される。タイムリミットが近い。

 クリプトンはもう一度、夢を味わい直すように目を瞑った。







 50.875点。クリプトンの現段階の点数だ。レベルにして51。

「次からステージ2だな。面白くなってきたぞ、クリプトン」

 戦争に面白いことなどないが、クリプトンは自分が麻痺してきているのも理解していた。

「これからもよろしく頼むよ、ハイドロ」

 声を掛けられたハイドロは耳の後ろをポリポリ掻くと、白い歯で笑って言った。

「メルロポンティ、しよう」

 そう言って差し出された手を数秒見つめ、クリプトンは握手のことかと気づいた。握った手套は厚かったが、持ち主の温かさは感じられる。そういえば、出会った時も握手を求められた。ハイドロは握手が好きなのかもしれない。

「変なハイドロ」

「よく言われる」

 クリプトンにはハイドロの笑顔が眩しく知覚された。射すような眩しさではなく、優しく包むような眩しさを。

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