気持ちの計算

「はあ……はあ……」

 死ぬかと思った。落ちるかと思った。全身の震えが、それを尚のこと実感させる。

 ハイドロを忘れるほど、目の前の敵に視界を狭めてしまった。自分の限界を測れなかった。もしハイドロがいなければ、あのまま真っ逆さまに落ちていた。反省材料は多いと悟る。

「やりすぎだろ。殴り殺してんじゃん」

 いつの間にか戦闘機から降りたハイドロが、敵の状態を確かめている。

「即死。首がねじれてる」

 ハイドロの声を聞きながら、何とか息を整えるクリプトンはまだ喋ることができない。酸素で気道が削られているのかと疑うほど喉が痛い。先ほどまで相棒だった重力が今の自分には重い。立てない。

「ほら」

 ハイドロはクリプトンに手を伸ばす、のではなく、敵から奪還したホウ岩を目の前に差し出した。右手には、そのホウ岩がウインクするように光っている。

「はあ、はあ」

「大丈夫?」

 あまり心配している様子のないハイドロを見て、クリプトンは何故だか安心する。ハイドロが余裕でいられる間は、自分の命に別状がないことが分かるような気がしているからだ。

「ああ……ごめ……」

「んん」

 ハイドロが手で言葉を制する。口はへの字だ。

「第一声が謝罪か? こんな時に言う言葉は?」

 考える間もなく、クリプトンは口に出す。

「ありがと、う……ハイドロ」

「いいってことよ!」

 差し出された左手を、クリプトンは掴んだ。

「お? 腕、見てみろよ」

 顎で示された箇所を見てみると、腕には34.875の数字。

「このホウ岩の大きさからして、ホウ岩が2点、敵が3点だな。あの敵、どうやらやり手だったらしい。クリプトンに手を出さなかったってことは、宝探し主義と見た。スピードをひたすら鍛えてそれを活用してたんだな。反対に、力では叶わないことが分かってるから、無駄な戦闘はせずに逃げると……まさに、逃げるが勝ち戦法」

 一人で分析をし出すハイドロを、クリプトンは複雑な感情で見つめる。


「何だ? 俺の解説が不満か?」

「いや……ハイドロ、今、お前は何を考えてる?」

 能力が上がっているように見えない自分のことを、呆れてしまっているだろうか。柄にもなく感傷的になるクリプトンだった。

 ハイドロの口元はキョトンとした後、しばらく考え込む。

「なあ、クリプトン」

「あ?」

 ハイドロの表情は見えない。

「俺はな、お前が順調にレベルを上げられないことも、簡単には心が追い付かないことも、全部織り込んでお前を選んだんだ。今更、見込み違いでした、なんて言わねえよ」

 クリプトンを映すゴーグルは静かに揺れた。ハイドロが笑っている。

「俺の計算に狂いはない。俺はそう思って、ここまでやってきた」

 その言葉にクリプトンは言葉を失った。目の前の男は、無理に励ますことも、貶すこともない。ただの事実を、ハイドロ自身を以て伝えている。諭すでも、教えるでもなく。

「いつまで突っ立ってる? ウドの大木にでもなるつもりか?」

 ハイドロは既に戦闘機へ戻ろうとしている。クリプトンは大きく口を開いた。

「行くよ!」

 その言葉の裏に、僅かな疑問を隠しながら。


 街角で腐っていた自分を、彼が戦場に引っ張り出した理由は何なのか。




 その後、クリプトンはホウ岩を二つ見つけ、敵を二人倒した。ビルに戻ってきた時には、腕に浮かぶ数字は40.875点になっていた。

「もうそろそろだな」

 ハイドロがその数字を覗いて言う。

「50まではまだあるけど?」

「ああ、そうじゃなくて。お前は今、レベル41だろ。この戦争では、レベル40を過ぎるとボーナスタイムが始まるんだ」

「へえ、ラッキー。たくさん点数が貰えるんだろ?」

「貰える……けど……うーん」

 クリプトンは嫌な予感を覚える。ハイドロが口ごもるということは、危険信号だ。


「次、クリプトンが戦うのは、人じゃない」

 冷や汗が流れる。

「ちょーっと遺伝子を操作された生き物が、次の相手だ。ここで戦線離脱もざらにある」

 ハイドロが、親指と人差し指で薄い隙間を作る。

「俺、終わったかも」

「ばかあ! できるから、俺がお前を選んだって言ったろ! いつも通り俺もいるし。しーかーもー、その生物に勝てば一気にプラス10点だ! お前は晴れてステージ2へ行ける!」

 喧しいハイドロのテンションとは反対に、クリプトンはため息をついた。

「途中棄権ってできる?」

「え? 無理」

 あまりにもあっさりとした回答に、クリプトンは部屋の隅っこで膝を抱えて座り込んだ。

「普通の戦場と一緒だよ。十二時間経たないと退却は許されない」

 顔を上げないクリプトンの隣にハイドロはちょこんと座った。

「でもさ、この俺が、この程度でやられる人間を選ぶと思うか? クリプトンなら乗り越えられるって分かってるから、俺はお前を選んだ。お前ができないって言うなら、それは俺の計算ミスを意味する。俺の計算アキュラシー知ってるだろ?」

「さり気なくお前の自慢をするな」

 ハイドロを睨む。

「俺は自慢なんてしてねえよ。クリプトンが自慢だと受け取ってくれたのなら、俺がそれだけ精密計算できる奴だと“お前が”思ってるってことだから」

 根性論や情で押し通さない理詰めが、今のクリプトンにはありがたかった。筋を通されると、逃げ場と不安が消えていく気がしている。

「もう大丈夫そうだな」

 ハイドロは呟いて立ち上がった。

「来週、迎えに来るから」

 片手を上げて廊下に出て行くハイドロを見送ると、クリプトンも徐に立ち上がる。

「俺の気持ちまで計算できんのかよ……こわ」







 廊下に並ぶ、五人のポートレートを見つめる。いや、一番左端に写る青年を見ていた。そのあどけない顔に触れる。周囲より何回りも小さく、とても人を殺せるようには見えない、殺人鬼。

「もう少しだ。待っててくれ」

 まるでここではない、遠すぎる過去を見つめるようにハイドロは語り掛けた。

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