お父さんは最強の棋士
髪を乾かすのも、布団の準備もすませて、将棋が終わればあとは寝るだけというところまで準備は整った。
盤駒の準備を終えた私たちは、互いに正座で向かい合う。
「手合いはどうする?」
「四枚……ううん、お前も前より強くなったやろうし、確かめてみたいな。二枚落ちでどうや?」
「うん。分かった」
私の返事にうなずいて、お父さんは、飛車と角を自分の陣地から取り除いた。
これは、将棋におけるハンデの一種。今回私たちが指すのは『二枚落ち』といって、強いほうが飛車と角の駒を使わずに指すんだ。
今までは、飛車と角以外に香車を使わない『四枚落ち』にしてもらうのが精いっぱいた。
でも、今回は、それよりも小さなハンデで指してくれることになった。
それが、嬉しい。
それだけ私が強くなったって、お父さんが信じてくれているっていう証拠だから。
「ほんなら、やろうか。蒼輝の先手で」
「よろしくお願いします!」
深々と頭を下げて、私はまず角道を開けた。続くお父さんも、角道を開ける3四歩と出る。
6六歩、3三角と進んだ五手目、私はど真ん中の5筋へ飛車を振った。
「ゴキ中か。好きやなあ」
小さく笑ったお父さんだけれど、すぐさまその表情は真剣なものに変わった。
そして六手目、お父さんはとうとう自陣の飛車を振った。お父さんから見て左から四番目の筋へ。
――『四間飛車』だ!
「(きた……)」
思わず、ごくりと生唾を飲む。
お父さんの得意戦法、『四間飛車』。これは、振り飛車の中でも攻守のバランスが取れているとされる戦法。同時に、お父さんの得意戦法でもあるんだ。
それを容赦なくぶつけてくる姿勢を見せつけられて、ぞわりと鳥肌が立った。
怖いからじゃない。楽しみだからだ。
お父さんと、二枚落ちのハンデはあるとはいえ、本気で戦うことができるのが、嬉しいからだ。
どうして、私がこんなにも、お父さんと本気で戦えるのを嬉しいと思うのか。
それは、お父さん――白銀
それも、ただのプロ棋士じゃない。
お父さんは、将棋界に八つあるタイトルのうち、何と三つものタイトルを持っている。
その中には、将棋界で一番強いと言われている、『竜王』っていうタイトルも含まれている。
つまり、お父さんは、今の将棋界で一番強い棋士と言っても過言じゃないわけだ。
そんな人の娘として生まれ育ってきた私も、物心ついたときから将棋に接してきた。
お父さんの対局を見て、こんな強い将棋指しになりたいと思った。
でも、それは理由の半分だ。
私が将棋を始めた、もう半分の理由は……
「負けました」
「はい、ありがとうございました」
自分の玉の詰みを読み切ってしまったところで、投了の意思表示をする。
これでもかなり頑張ったほうだと思うけれど、思うように攻めきれなかったし、お父さんの攻めは受けきれなかったしで、かなり悔しい終わり方になってしまった。
ううう、せっかく二枚落ちにしてもらえたのに……
投了図を見ながらしょぼくれる私に気を遣ってか、お父さんが盤面を最初の形に戻し始めた。感想戦をしよう、っていう、無言の誘いだ。これ幸いと、私も黙って自分の駒を元に戻すことにした。
「相振り飛車は、比較的、研究が進んどらん形やからなあ。慣れへん形でやりづらかったか?」
「うん。全然思うように攻められへんかった」
「まだまだ勉強の余地ありってことやなあ。精進しい」
お父さんが、くっくっ、と笑いながら、私の指した緩手や悪手を次々と指摘していく。
まだまだ指し慣れていない形だから、勘だけを頼りに指した部分が多いっていうことが、お父さんにはバレバレだったみたいだ。
同じ相振り飛車の将棋でも、今日ウィリアムズ君とやった時は勝てたのに。
ううう、すっごい悔しい!
「……まあ、でも」
ふと、お父さんが駒を動かす手を止める。
「強なったなあ、蒼輝」
「えっ」
ど、どうしたんだろう、急に。
いきなりほめられたから、嬉しいというよりも、びっくりしてしまう。
「嘘やん。だって、ハンデもらっても勝たれへんのに」
「そら、まだまだ二枚落ちでお父さんに勝てるようなレベルやないけどな」
そりゃあ、竜王相手じゃね。
「けど、確実に指し回しは上手くなっとるで」
「そうかなあ」
「そうや。攻めもよかったけど、粘れるようになった。前なんか、相振り飛車になったらもっと早く投げとったやろ」
「それは……そうかも」
確かに、前だったら、相振り飛車に限らず研究が行き届いていない戦型になった時点で、考えるのをほとんどあきらめてしまっていたと思う。
でも、今日はそうじゃなかった。
結果としては負けてしまったけれど、しっかり詰みまで指すことができた。
ウィリアムズ君と指したあの将棋が、「相振り飛車になっても対応できる」っていう自信をくれたんだと思う。
お互い、拙いながらも全力でぶつかりあった、熱い対局。思い返すと、ついついほおがゆるむ。
そんな私を見て、お父さんは何を思ったのだろう。
「……なあ、蒼輝」
「なに?」
私の名前を呼ぶ声はどこか固くて、それが不思議で首を傾げる。
「お前、そろそろ受けてみいひんか。研修会試験」
――研修会試験。
その言葉を聞いた瞬間、ざわりと心が波立つのが分かった。
研修会っていうのは、プロ棋士や女流棋士を目指す人たちの養成機関のことだ。そこに入るには、大阪にある将棋会館で開かれる試験に合格する必要がある。
でも、合格できれば、学校のクラブや町の道場に集まる人たちよりも強い人たちと、たくさん将棋を指すことができる。
もしかしたら、本当に女流棋士になれる可能性だってあるかもしれない。
お父さんは、いわば、そのチャンスをつかむためのチャンスを、私に示してくれたのだ。
けれど私は、お父さんの言葉に、素直にうんと言えなかった。
「な、何で?」
思わずつっかえながらたずね返せば、お父さんは気まずそうに頭をかく。
「いや。お前、お父さんと二枚落ちで指せるぐらいにはなったやろ? 勝てるか勝てんかは別としても」
「まあ、一応……」
「お前はもう、十分実力があると思うんや。同年代の子にはそうそう負けへんぐらいに」
「……うん」
「せやから、お前にその気があるなら、受けてみたらええと思うんや。試験を。師匠にはお父さんがなったるから」
研修会の入会試験を受けてみてもいい。
しかも、お父さんが――最強の棋士が師匠になってくれる。
破格すぎる条件付きの提案なのに、私はどうしても、それを嬉しいと思えなかった。
口の中がカラカラに乾いて、妙に心臓がバクバクする。
もうずっと前にかけられた、厳しい言葉が、頭の中でふいによみがえる。
『ほんなら、将棋なんかやめてしまい。あんたは将棋指しに向いとらんわ』
「……ごめん、お父さん」
何とか返事をした私を見て、お父さんは悔しそうな、どこか悲しそうな表情をする。
けれど、それ以上何を言っても、私が答えを曲げないことも、分かっていたんだろう。
「そうか」
それだけ言って、お父さんは、盤と駒をさっさと一人で片付けてしまった。
「明日も学校やろ。
「……うん。おやすみ」
ぼそぼそとそう言って、振り返りもせずにリビングを出る。
せっかく二人で将棋を指せたのに、もやもやした気持ちを抱えたまま、その日は眠りについた。
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