第三局

家族

 クラブが終わって家に帰ると、めずらしく玄関の明かりがついていた。

 そういえば、お父さんは今日、お休みの日だったんだっけ?

 ピンポーン、とインターホンのボタンを押せば、少し間をおいて『はい』と穏やかな声が返ってきた。


「お父さん、ただいま」

『蒼輝か? ちょっと待ちや』


 通話が切れると、ばたばたと小走りするような足音が近付いてくる。

 ゆっくりと開いたドアの向こうで、お父さんはにこやかに私を出迎えてくれた。


「おかえり。蒼輝」

「うん。ただいま」


 マフラーを外しながら一歩家に入れば、暖かな空気がふわりと私を包みこんでくれる。

 ああ、あったかい。

 鍵を閉めながら「寒かったやろ」と言うお父さんにうんとうなずいて、上がり框に座りこんだ。


「今日は、クラブやったんか?」

「うん、そうそう」

「疲れたやろ。今日はお父さんがご飯作ったるから、ゆっくりしとき」

「え!? そんなん悪いわ。お父さんこそ、せっかく休みなんやから、ゆっくりしたらええのに」


 慌てて靴を脱ぎながら言えば、お父さんは「あほ」と苦笑い。


「休みやからこそ、将棋以外のことで気分転換するんやろ」

「せやけど……」

「ほんなら、ご飯の準備と片付け、手伝ってくれんか。それやったら、お父さんも楽できるし。な?」

「……うん。分かった」


 お手伝いならお安いご用だ。私の返事に満足したようにうなずいて、お父さんは先にリビングへ戻っていった。

 さて、ご飯の準備を手伝う前に、私もやることをやっておかないと。

 手を洗ってからおやつをつまんで、宿題をして。

 そうだ。おやつの前に、一番大事なことをしなきゃ。

 自分の部屋にランドセルと上着を放り出して、すぐに隣の部屋へ行く。

 私の部屋の隣は、去年から空き部屋になっていて、ほとんど物がなにもない。

 けれど、がらんとした和室のすみっこには、たった一つの、存在感のあるそれが置かれていた。

 それの前にしかれた座布団に正座をして、おりんを二回鳴らす。目を閉じて手を合わせながら、私は小さくつぶやいた。


「お母さん、ただいま」


 仏壇に飾られた、小さな写真立ての中で、お母さんは穏やかに笑っている。

 返事がくることなんてないと分かり切っているけれど、こうしてお母さんと話をするのが、私の日課だ。


「お母さん、あのね。今日、新しい友達ができたんやで」

『へえ、そうなん? どんな子、どんな子?』


 実際に声が聞こえてくるわけじゃないけれど、お母さんだったらそう言ってくれそうな気がして。

 ここには見えない、楽しげな笑顔を想像して、思わず小さく笑ってしまう。


「ウィリアムズ君っていうねん。イギリスから来たんやって」

『へええ。留学生ってこと?』

「ほんでな、将棋が好きなんやって! 今日のクラブで一緒に指したんやけど、すごい強かってん」

『将棋ができるん!? ええなあ、すごいなあ!』

「友達になろうよ、って言うてくれてん。もっと一緒に将棋したいって……ちょっと恥ずかしかったけど、嬉しかったわ。私も、もっとウィリアムズ君と指したいもん」

『ええ友達になれそうでよかったやん。お母さんも安心やわ』


 返ってこない声を想像しながら、お母さんに話しかける。

 お母さんにも、いつか見てほしかったな。私とウィリアムズ君が、一緒に将棋を指すところ。


「ほんなら、おやつ食べて、宿題してくるわ」


 またね、と言って、仏壇の前を離れる。


『ご飯の前なんやから、食べすぎたらあかんで』


 小さい頃、そう言ってたしなめてくれたのとよく似た声が聞こえた気がした。




「へえ、イギリスからの転校生か」

「そう! しかもな、将棋ができるんやで」

「ほんまか! すごいなあ。海外の子で将棋が指せる子は、なかなかおらんぞ」


 向かい合ってご飯を食べながら、お父さんにも今日あったことを話す。

 ウィリアムズ君が転校してきたこと。

 彼が将棋を好きなこと。

 クラブの時間に、彼と将棋を指したこと。

 勝ったのは私だったけれど、彼もかなり強くてびっくりしたこと……

 思い返してみたら、今日は何だか、話題のつきない一日だったなあ。

 学校の話が一区切りついたところで、お父さんが、「ええなあ」とため息をつく。


「将棋の話をしとったら、父さんも指したなってきたわ」

「来週は嫌でも将棋せなあかんやんか」

「公式の対局とは全然違うやん」

「それはそうやけど」


 一度将棋のことから離れて、休憩するための日なのに、結局将棋のことを考えてる。

 お父さんって、本当に根っからの将棋指しなんだなあ。

 こうして話をすると、改めて実感できた。


「ごちそうさまでした」

「ん、おそまつさまでした」


 久しぶりに食べたお父さんのカレーは、おいしかった。私もちょっと手伝ったけど、何ヶ月か前に食べた時と変わらない、安定の味。

 自分の分の食器を片付けようと立ち上がれば、ふと、お父さんが口を開く。


「蒼輝。お父さん、来週からまたしばらく、対局とかイベントで忙しくなるんや。関東に移動したり、戻ってきたりするしな」

「うん。そうやね」


 お父さんは、職業柄、関西と関東――ここ、神戸や大阪と東京を行ったり来たりをすることがたまにある。

 私は全然気にしていないけれど、お父さんとしては、さびしい思いをさせてしまっていると思ったのかもしれない。


「久しぶりに指そうや。将棋、教えたろ」


 お父さんがそう言ってくれたのが、ものすごく嬉しかった。

 だって、お父さんは――


「ほんまに? ええの? 教えてくれるん?」

「おん。今日は眠たくなるまで将棋漬けや。片付けはお父さんがやっといたるから、お風呂の準備してき」

「うん!」


 お父さんと将棋が指せる。

 こんなの、いつぶりだろう? 楽しみ!

 うきうき、わくわく、どきどき、高鳴る胸に手を当てて、私は軽い足取りでお風呂の準備をしに向かった。

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