八面
琥太郎「大丈夫、怪我はない?」
人の波から引き上げてくれる刹那は強く、
そして海からあがっては
優しく手を引いて、
ゆっくりと離してくれた。
杏「…。」
琥太郎「あんちゃん?」
杏「あ、うん…ない。」
琥太郎「よかった。」
ふに、と笑い細まる目つきが
とても懐かしいと同時に、
こういうふうに笑う人だったっけと
掠れた記憶を思い出す。
いつ以来彼の笑顔を
見ていなかっただろう。
離れてしまう手前は
いつも眉を下げ
笑うことなどなかったものだから、
どうしても新鮮に映ってしまう。
同時に、やはり彼からは
すぐに離れた方がいいなんて思う。
うちが近くにいてはいけない。
1歩後ずさるも、
「赤になるから」と
手招きをされた。
が、直前に
アオイと離れてしまったことを思い出して
ぶんぶんと強く首を振った。
信号はちかちかと瞬きをしている。
見かねたのか、琥太郎くんは
うちの手をそっと引いてくれた。
うちが中学生の頃…
それこそとある出来事の渦中にて
こうしてもらったことが
あるような気がしてゾッとした。
渡り終えて、恩を仇で返すように
手を振り払ってしまった。
きょとんとする彼に
慌てて言葉を並べる。
杏「ごめん、人を……探してて。」
琥太郎「人を?」
杏「だから…。」
だから、一緒にはいけないね。
またね?
じゃあね?
何というべきか迷っていると、
琥太郎くんは僅か微笑んだ。
琥太郎「一緒に探すよ。どんな人?」
杏「え?いやいや、悪いからいいよ。どこか行く予定だったんでしょ。」
琥太郎「そうだったと思うけど、忘れちゃったからいいよ。」
杏「忘れたって…」
琥太郎「どんな人なの?」
杏「……うちの腰より高いくらいの身長の…多分小学生の女の子。学校の制服っぽいのを着てて、アオイっていう名前なの。」
琥太郎「制服…?知らないな。」
杏「そうだ、劇場。劇場によくいるって言ってた。」
琥太郎「それもあまりわからないな。この辺りではないのは確かだね。」
杏「そっか…ありがとう。遠くの方探してみる。」
琥太郎「ついていくよ。歩きながらゆっくり話そう。」
杏「……うちのこと、嫌じゃないの?」
自分で言っておきながら
ひゅ、と息が漏れそうになった。
意図せず昔の自分の言葉を
なぞってしまっていたことに
恐怖を覚える。
しかし。
琥太郎「嫌?あはは、どうしてそう思うんだよ。」
ぷは、と吹き出して笑った。
今の彼は、あの日々の前の琥太郎くんだ。
そう確信せざるを得なかった。
°°°°°
杏「うちのこと嫌いじゃない?」
琥太郎「嫌いじゃないよ。」
杏「本当に?」
琥太郎「本当に。大丈夫だよ。ちゃんと近くにいるから。」
杏「ごめんね。こんな…うちなんて」
°°°°°
琥太郎「あんちゃん?」
杏「あ、あぁ。ごめん、何でもない。」
琥太郎「…?とりあえず、いろんなところに歩いて行ってみよう。まぐれでも見つけられるかもしれないからさ。」
杏「……。」
琥太郎「行くよ。」
杏「うん。」
恐る恐る彼の隣を歩く。
自然と肩に力が入り
猫背気味になっていた。
罪悪感を背に担いでいる。
その重量が突如何倍にもなった気分だ。
周囲を見る余裕もない。
アオイを探すどころの話ではなく、
変な動悸を抑え込みながら
俯いて足を動かした。
琥太郎「あんちゃん、更に身長伸びたでしょ。」
杏「そうかも。」
琥太郎「あんなにちっちゃかったのに。びっくりだよ。」
杏「小学生より前の時から家にいたよね。」
琥太郎「忽那さんの下について十数年…そりゃ、あんちゃんも中学生になるわけだ。」
ぴく、と眉間が動く。
わかっている。
彼は高校生になったうちを知らない。
中学2,3年生あたりまでの記憶で
途絶えているのだ。
最も幸せだった時で止まっている。
琥太郎「髪もばっさり切ったんだね。腰くらいまであったでしょ。」
杏「……切った。」
琥太郎「なに、失恋?」
口角を片方上げ、
意地悪する時の笑みで問いかける。
違う。
違うよ。
髪を切ったのは失恋なんてものではない。
杏「そう思う?」
琥太郎「いいや。」
杏「……だよね。」
琥太郎「一瞬見えた時に違う人かなとは思ったんだけど、顔つきとか雰囲気でわかったよ。」
杏「…。」
琥太郎「そういえばこの前、もう受験の話されたって言って」
杏「あのさ。」
琥太郎「ん?」
その場で足が止まる。
こんなに心が痛いことがあるか。
会いたい人に会えた。
もう出会えない人だ。
会いたい人が、
互いに1番幸せだった時の性格で、
笑い方で、話し方で、目つきで
そこに立っている。
うちが全て壊した彼が。
長年の信頼の元に甘え、
優しさに漬け込み狂わせてしまった彼が。
杏「うち、高校生だよ。高1。」
琥太郎「あれ、そうだっけ。あぁ、だから身長が伸びてる気がしたんだ。」
杏「…。」
琥太郎「あんちゃんのことなら割と自信があったのに、ちょっとおっちょこちょいだったな。」
本当に自信があったようで、
透かし凹みながら
まだ隣を歩いた。
幸せになるはずだった彼の人生が
今平穏に続いている。
もしもの世界を見ている。
このまま彼と話し続けては
それこそ過去のことを、
過去の全てをなぞり
思い出してしまいそうで嫌になる。
早く離れたほうがいいのだ。
アオイを探していたり、
そもそもここはどこなのか
未だ明確にわからなかったりすることに
注意を向けるよう念じる。
それから歩いている間に
都市部を抜けて、
工業地帯やこれまでに通ったところとは
また違った住宅街、
そして田畑が数多見える場所など、
短時間ではあるはずだか
ころころと景色が変わった。
その間琥太郎くんは
最近あったことを話してくれたり、
返答のぎこちなさに呆れたのか
話題を振ってくれたりした。
そのほぼ全てをはぐらかしていると、
何度目だろう、呆れたのか
また自分のことを話してくれた。
それが呆れたからではなく
ただの気遣いであることに気づきながら、
それでも彼の心を
芯から信じることはできなかった。
どこかは呆れているのかもしれないと
客観的とは微塵も言えない、
被害妄想の虜になりながら歩く。
何度目かの住宅街を抜けると、
琥太郎くんと出会った都市部まで
戻ってきてしまった。
琥太郎「直進してたはずなのに。」
杏「…アオイ…どこにいるんだろ。」
琥太郎「大切な人なの?」
杏「…わからない。微妙かな。…説明しづらいんだよね。アオイはアオイだけど、本人なのか確信が持てないっていうか…。」
琥太郎「そうなのか。まあ何にせよ、早く見つかるに越したことはないんでしょ?」
杏「うん。」
琥太郎「劇場も見つかりそうにないし、適当に歩くだけじゃ難しいか。」
杏「地図とかないの?」
琥太郎「見たことないな。このあたりは特に入り組んでるんだ。一方通行も多い。」
杏「そっか…。」
きっと駄菓子屋から都市部に来た時のような
道のことを言っているのだろう。
あれは戻ろうにも戻れそうにない
まさに一方通行の道だった。
そのようなものがたくさんあるらしい。
もしかしたら劇場への道も
一方通行なのかもしれない。
この行き交う人々の数を見れば、
1人くらいはその道を知っていそうだと
ぼんやり思う。
琥太郎「ちょっと別の方法を取るか、一旦時間を置くかだな。少し休憩しようか。」
杏「…うん。」
そもそもアオイを探している
場合なのだろうか。
元の世界はおろか、
駄菓子屋まで戻れるかどうかも危うい。
それに、もしもの話、
この街の人々のように
何かを少しずつ忘れてしまったら、
いろはのことを忘れてしまったら。
そう思うと余計に怖くなる。
隣にいる琥太郎くんは
呑気に近くにあったベンチに腰掛け
横をとんとんと叩いた。
おいで、ということらしい。
隣にいるのは怖い。
またうちが甘えてしまいそうで。
けれど、その恐怖以上の安心が
どこかに潜んでいる気がする。
心の蜃気楼を信じ、
小さく頷いてから彼の隣に座った。
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