海面

どのくらい歩いただろう。

ここがどこなのか

確信を得ることができるような情報が

何かしら転がっていないかと

右往左往、方々に歩く。

ここには人がいるようで、

そこかしこから老若男女の声がした。

玄関先で話している婦人の方々、

竹馬で遊んでいる小学生、

コンビニに群がる猫と高校生。

4車線ある大きな道では

自動車も颯爽と走り去っていた。


歩道橋を渡り、さらに進むと

なんとだんだん建物が

高くなっていくではないか。

背の高い建物は

うちらを影に隠していく。

いろはは初め、住宅街の家の中や

地面に逞しく生えている雑草、

めんこをして遊ぶ子供たちの

集まった空き地など

目線は並行か下の方を向いていたのだが、

次第に見上げながら歩くようになっていた。

看板ひとつひとつを読む勢いで

首を左右に動かしながら空を仰いでいる。


新川島駅がどのあたりに存在するのか、

そもそも存在していない場所なのかすら

スマホを使えない今では定かではない。

住宅街から都市部まで

真隣にあるのではと思うほど。


杏「結構歩いたよ。」


いろは「ねー。都会になっちゃった。」


杏「住宅街から見えてたっけ。」


いろは「見えてたかも?さっきの場所は郊外寄りだったのかなー。」


杏「じゃあここは?横浜?」


いろは「どうだろー。わからないや。」


杏「どこまでいくの。」


いろは「行けるところまで?」


杏「疑問系なんだ。」


いろは「あ、そうだ。なんで今まで忘れてたんだろう。」


杏「…?」


いろは「人に聞けばいいじゃんー。たくさんいるしー。」


杏「こ…わくない?」


いろは「そう?」


杏「話したら取って食われるとか。」


いろは「妖怪では無さそうだけど…あのー、すみませんー。」


いろはは大人しそうな見た目に反して

人見知りすることなく

近くの歩道でベビーカーを押していた

女性の人に声をかけた。

ちゃんと存在している人のようで

中では赤ちゃんが

もぞもぞ動いているのが見える。


「はい?」


いろは「この辺りに来たのが初めてでして。どこなのか教えていただいてもいいですしょうかー。」


「ああ…えっと…それが私も忘れちゃったのよ。」


杏「忘れた…ですか?」


「ええ。長いことここにいるような気もするし、最近したような気もする…。少し昔ならちゃんと覚えてたはずなんだけどね…。」


いろは「そうでしたかー。お時間取っちゃってすみません、ありがとうございますー。」


いえいえ、と謙虚に首を振り、

その女性はどこかに行ってしまった。

背中を見届けていると

いろはが口を開いた。


いろは「忘れちゃったんだってねー。」


杏「うん。」


いろは「ここ、居続けたら良くないのかもね。」


杏「うちらも忘れちゃうってこと?」


いろは「可能性はあるよー。ここがどこなのかわからなくなってここに住んでたなんて勘違いし始めちゃうかも。」


杏「そんなけろっと言わないでよ。」


いろは「とか、互いに誰だかわからなくなったり。」


杏「やめてって。」


いろは「杏ちゃんは怖いの苦手ー?」


杏「好きじゃないかな。見るのはまだしも、体験するのは違う。」


いろは「わかるなー。自分の安全が確保された状態で見る怖いものが1番面白いよねー。」


杏「ホラーとか見るの?」


いろは「いいや、全くー。」


揶揄うように笑って、

それから都市部の方を指差しては

「もっと向こうに行ってみよう」と

まるで学校探検をする小学生のように

目を輝かせて言った。

長いこと歩いていたせいで

どうやらこの景色にも慣れてきたらしい。

そんないろはを見ていたら

幾分か肩の力が抜けた。


高くなっていく建物を見ながら

もしも全てを忘れてしまったら

なんて想像が止まらなくなっていく。

ここがどこだかわからなくなり、

相手が誰だかわからなくなり、

ここにきた目的はもちろん、

自分のことすらも…。

そんなことになってしまったら

帰る手立てはあるのだろうか。


考えていたって仕方のないことだと

脳内の言葉を飛ばすように

首を強く振った。

顔を上げる。

すると、渋谷のスクランブル交差点のような

大きな道路と長い横断歩道のある場所に出た。

街の内側、あわよくば中心の方へと

向かうことができればと

密かに思っていたのだが、

気付かぬうちに達成していたらしい。


杏「見て、上。」


いろは「わー。大きいモニター。新宿とか池袋とか、こういう感じなのかなー。」


現代の東京の都市部にあるような

建物の上層に配置されている

大型モニターが目に入る。

かと思えばその建物の1階では

新発売と看板を大量に掲げて

ファミコンやゲームボーイ、

電気屋ではポケベルが売られていたり、

水でくっつくビーズや指人形などの

おもちゃが並べられていたり、

現代にあっても見劣りしない、

むしろ令和の時代に

作られたのではないかと思うような

おしゃれなカフェがあったりもした。


街を見渡しながら

隣で同じようにあちらこちらに

視線を向けるいろはと歩く。

風が心地いい。


杏「いろは。」


いろは「んー?」


杏「変だよ。ここ。」


いろは「それは元からー。」


杏「そうだけど…。」


いろは「何か引っ掛かるの?」


杏「周り見てみてたらおかしいなって思わない?」


いろは「んー?面白そうなお店あるなーくらい。」


杏「本当に周り見てた人の感想?」


いろは「見てたよー。雲くらいなら。」


杏「うちさ、ここにきてすぐは数十年前の世界に来ちゃったんだって思ったの。」


いろは「ブラウン管のテレビあったもんねー。」


杏「空き地だって多かったし、そこまで田舎という感じでもないのしか田畑も多かった。」


いろは「けど、今の意見は違うのー?」


杏「うん。だって見てごらんよ。巨大なモニターに新しいカフェがある。それなのに古いゲーム機器が新発売になってる。」


ちょうど電気屋の前を通る。

いろはは吸い寄せられるように店頭を眺めて、

USBの値段を見ては顔を顰めた。


いろは「高ーい。」


杏「今はこんな高級品じゃないよ。やっぱりおかしい。」


いろは「ここのお店だけ?」


杏「いいや、やたらとDVD屋や古本屋とかも目につくしぱらぱらとあるっぽい。」


いろは「さっき前を通ったカフェは、イートインと持ち帰りで値段が違ったよー。」


杏「やっぱりおかしいよ。」


いろは「要するに杏ちゃんが言いたいのは、私たちは過去の街に来たんじゃなくって…。」


杏「時代がちぐはぐになったごちゃ混ぜの街に来ちゃった…みたいな感じかも。」


まるで夢の中で

頑張って地に足をつけて

歩いているような気分だった。

近未来な乗り物こそないが、

人が浮いていたとしても

それが当然だと言われたら

信じてしまいそう。


杏「さっきの場所まで戻らない?うちらの降りてきた駅の方。」


いろは「道覚えてるー?」


杏「それは…全然だけど。でもほぼほぼ真っ直ぐきたからなんとかなりそうじゃない?」


いろは「戻って迷うくらいなら先に進んじゃおうよー。」


杏「都市部をぐるっと回るってこと?」


いろは「ううん、直進ー。また住宅街とかあるかも。」


杏「それはそうかもしれないけど…。」


いろは「それに私たち、彼方ちゃんを追ってきたんでしょー。」


杏「そうだった。」


完全に忘れているわけではなかったが、

目の前の異変にいっぱいいっぱいで

つい失念していた。


いろは「この都会で探そうって言ったってしらみ潰しするにも骨が折れるからさ、住宅街あたりをまず潰してこうよー。」


杏「住宅街にいなかったら?」


いろは「まあ…小さな達成感ということでー。」


また足を踏みだす。

歩いても歩いても終わりが見えない気がした。

どこに向かっているのだろう。

住宅街の先は?

さらに先にまた都市があったら?

海まで出たらいろはは

ようやく止まるのだろうか。

歩き続けて足にはそろそろ

疲労が溜まってくる頃だが、

太ももをぴしゃりと叩き気合いを入れ直す。


涼しいおかげで思っている以上に

汗をかいていなかった。

電車に乗る時にどっとかいたが

それもとうに乾いている。

過ごしやすい気温なのは

ここが数十年前だからだと思っていた。

昔の夏は今のように40℃を

超えることはなかったと聞くし、

秋も相当涼しかったろう。

しかし、そうでもないとなれば

どこかの空間では暑かったり、

反対にもっと寒かったりもするのだろうか。

馬車やもはや飛脚がいたりするのだろうか。

そう思うと怖いという印象から

段々と面白そうとすら思ってきてしまう。

緊張するのに疲れたのだ。

武士が出てきて急に切られる

なんてことがなければ

なんだっていい気がしてきた。


気楽に2人で歩いていると、

都市部はずいずい遠くなっていき

目の前はまた背の低い建物が増えた。

2階建以上の建物は

マンション以外にあまりなく、

京都の中心かと思うほど

整えられているように見える。


いろは「なんだか懐かしい雰囲気の街になってきたねー。」


杏「あ、商店街あるよ。路地裏の方。」


いろは「わー、賑わってるー!」


杏「今ではシャッター街になった商店街が多いからなんか新鮮。」


いろは「ねー。こういうこじんまりとした商店街好きなんだよねー。お店の人とお客さんの距離が近くってさ。」


杏「昔って迷惑客とかいるイメージってあんまりないな。」


いろは「いるにはいるんじゃないー?」


杏「いるとは思うけど、なんかこう…距離が近い分、話してる間に仲良くなってそうっていう偏見があるんだよね。」


いろは「そんな大阪のおばちゃんみたいなー。でも、言いたいことはなんとなくわかるなー。人との距離が遠くなっちゃったよね。」


杏「そう。距離の遠い人だから何言ってもいいやってなっちゃいがちじゃない?」


いろは「そんな失礼なこと言ったりするのー?」


杏「いやいや、言わないけど。目も合わせないし無言で買い物するみたいな人もいるじゃん。」


いろは「交流というより、ただただ買い物っていう目標達成の場にはなってるのかもねー。」


杏「こういう商店街見てると、現代って見たくてもいい刺々しい文字ばっかで対面での交流って減ったよなぁって。」


いろは「ここはあたたかいねー。」


あたたかいという言葉にしっくりときた。

これまで通ってきた街中や住宅街では

その場で出会ったような人々が話していた。

対面での交流が多いのだ。

この辺りの時代は

きっとまだスマホやSNSが

普及していない状態なのだろう。


いろは「もうちょっと歩いたら休憩しようー。足くたくたー。白菜みたいー。」


杏「その例えはよくわからないけど…うちも疲れてきた。結構歩いてきたよね。」


いろは「ねー。」


更にどのくらいだろう、

数十分かもしれない、

数時間かもしれないほど進むと、

囂々と音のする川沿いの道に出た。

数m下に川が流れている。

川は細く、15mほどの橋が

均等の感覚でかけられていた。

川辺に設置された手すりは新品のようで

木材がつやつやとしている。


いろは「地域のおもちゃ屋さんや洗濯屋さんがあるねー。」


杏「あ、向こうに駄菓子屋。」


いろは「わー。夏休みぶりだー。行こうー。」


リュックの中にお金はあれど

それが使えるとも限らないのに、

いろははすいすいと引き寄せられ

そのお店の前まで行っては

ぴたり、と止まった。

棒立ちのまま店内を眺めている。

これまでふらりふらりと歩いていた

いろはからは考えられない挙動で、

不思議に思い近づいた。

店内を見て目を見開いている。

そんなに懐かしいお菓子でもあったのだろうか。


いろは「…!」


杏「いろは?どうした……」


店内を眺む。

土間の部分を駄菓子屋として

解放しているようだった。

レジの横にあった襖は開かれ、

そこは玄関として使用しているのだろう、

床には品物の入っていそうな

大きな段ボールの横に

靴がいくつか並んでいる。

その段差に腰掛けている人が2人。

笑顔で楽しそうに

話しているのが見えた。

1人は見知らぬ白髪のご老人。

もう1人。


いろはの名前を聞いて勢いよく振り返り、

目をまんまるにしてこちらを見つめている

彼方の姿があった。


彼方「……え…?」


杏「彼方…?彼方じゃん…!」


いろは「…本当にいたー。」


彼方「は?え?何で2人がここにいんの?」


まるで問い詰めるような言い方だった。

ご老人の隣から慌てて靴を履き

こちらまでぐいぐい歩いては

いろはの肩を強く掴んで1度大きく揺らした。

「うわあ」と首をゆらつかせながらいう。


彼方「何で?」


杏「探しにきたの。色々あって、こっちに迷い込んじゃってさ。」


嬉しそうににこにこしている

いろはとは真逆で

緊迫感のある顔つきをした彼方を前に、

うちはへらへらと笑うことしかできなかった。

緊迫するほど適当に笑って

誤魔化そうとしてしまう。


彼方「2人で?」


いろは「そうー。彼方ちゃんは何でここにいるのー?」


彼方「それは…知らない。なれ行き。」


杏「そんなことある?ここにくる前は何してたとか…。」


彼方「知らない。」


いろは「修学旅行に行ってたでしょー?そこで何かあったんじゃないかって」


彼方「知らないって言ってんでしょ。」


一際大きく声を上げる。

家家に声が僅か反射した。

思わず肩を縮める。

彼方も思っていた以上に

声が出てしまったのか、

はっとしていろはを離した。


「どうしたんだい、大きな声を出して。」


彼方「あ…ごめん、おばあちゃん。」


駄菓子屋の奥から

「よっこいしょ」と聞こえ、

ご老人…おばあちゃんが店先まで出てきた。


杏「えーっと…そちらは?」


彼方「おばあちゃん。」


いろは「彼方ちゃんちのおばあちゃん?」


彼方「ううん。この辺で会っただけ。」


杏「あ、身内の人じゃないんだ?」


彼方「そう。長いことここで一緒に過ごしてる。」


おばあちゃん「ふらふらしてたからここにいなっていったんさ。おばあちゃんって気軽に呼んでちょうだいな。」


彼方「おばあちゃん。こちら、学校の知り合い。」


いろは「友達ですー。」


彼方「知、り、合、い。」


杏「初めまして。すみません、うるさくしちゃって。」


おばあちゃん「いいんだよ。まあまあよく来たねぇ。上がっていきなさいな。いくらでもここで過ごしていくといい。」


杏「あー…そうしたいのは山々なんすけど…。」


長いしすぎるのも

よくない気がする。

街は暖かくて懐かしいが、

それでもそこしれない恐怖はある。

へらっとしつついろはに視線を送ると

同じように彼女もうちを見ていた。

考えていることは似ていたらしい。


いろは「私たち、彼方ちゃんに一緒に元の場所に帰ろうって言いにきたんですー。」


おばあちゃん「ほぉー。まあまあ大層なことを。」


はっはっは、と豪快に笑い、

ややずれた老眼鏡を元の位置に戻した。

どうやら後ろで髪を結んでいるらしい。

この距離で見れば

しっかりおばあちゃんだとわかる。


おばあちゃん「元の場所がわかるのかい。」


いろは「多分ー。今きたばっかなんですよー。」


おばあちゃん「そうかい。そりゃあまだ戻れるさ。ただその前にひとつ」


彼方「戻らないよ。」


おばあちゃんの話を遮って、

うちらを睨みつけながら

彼方はぽつりとつぶやいた。

戻らない。

その言葉を咀嚼するのに時間がかかり、

口をぱくぱくとしたのち

ようやく音が出てくれた。


杏「え?戻らないって何で…。」


彼方「戻る価値がない。」


杏「でも、ご家族とか心配して…そうだ、湊。湊も心配してたよ。それに詩柚だってちょっと前に、彼方の誕生日だってツイートしてたし…みんな心配してる。」


彼方「心配に何の意味もない。」


杏「そんなことは」


彼方「心配する以外、何かしたの?」


それは、と口を噤む。

共に修学旅行に行っていた湊は

彼方がいなくなってからや

修学旅行から戻ってきてからも

何かしら動いていたかもしれないが、

その他の皆は彼方を助けるために

これといって何もしていない。

ただ生きていることを願い、

何もせずとも戻ってくるよう

祈っているだけだった。

誰も救うための行動まではしなかったのだ。

うちもそう。


お前は何もしていない。

その事実の刀で体を半分に断ち割り

体や脳の断面を見られているような気がして

言葉が詰まった。

それを見かねたのか

隣で息を吸う音がした。

いろはだった。


いろは「弟くんのことはいいの?」


彼方「…。」


いろは「大地くん、寂しいって言ってたよ。」


彼方「どうでもいいよ。」


いろは「…。」


彼方「うちはよく生きたから。もういいの。」


いろは「…。」


彼方「大地が金に不便なく生きてるならそれでいい。うちはもう戻んなくていい。」


いろは「…確かにどこかからか通帳を持ってきて、お金を引き出してご飯は食べれてるって話を聞いた。でも、家が寂しいって言ってたよ。」


彼方「元から2人だけしかいないみたいなもんだし。」


話はなかなか見えてこないが、

そういえば2人は親しかったのだと思い出す。

彼方のツイートを遡ってまでは

見ていないのだが、

今の会話から両親が

海外転勤しているだとか、

何かしらの事情があって

弟と2人で暮らしているらしいことはわかる。

大切な家族がいるのなら

すぐに戻ると言いそうだが、

彼方は「よく生きた」と言ったことが

酷く引っかかった。

なぜ過去形なのか。

もう戻らないと言い張るのか。


いろは「大地くんも彼方ちゃんも報われないよ。」


彼方「あの子の側にはうちなんていない方がいいの。」


「そんなことないよ。」


知らない声にぎょっとして

声のした方を見る。

すると、学校の制服を身につけた

小学生くらいの女の子が

大きな瞳をくりくりとさせて

こちらをじーっと見つめていた。

ボブで前髪も後ろ髪も

きっちり切り揃えられている。

どこかで見たことのあるような

顔つきをしていた。


おばあちゃん「あらぁ。来てくれたのねぇ。」


「うん!あのね、パパとママとね、あとお小遣い探してるの!」


彼方「まだ探してるの?」


「ずっと見つかんないの。お小遣い、お使い頼まれて、近くの自動販売機でいいから、パパがたまに飲んでるコーヒー買うの。でもなくしちゃって、どこで無くしたかわからなくなっちゃって。でね、この前ね、おっきい鳩見たところの公園でね」


おばあちゃん「うんうん。この前おばあちゃんに教えてくれたよね。説明上手だったからすっごく覚えてるよ。」


杏「この子は…?」


おばあちゃん「いろんなところを歩いてる子なのよ。たまにこっちの方まで歩いて挨拶しに来てくれるの。」


「いつもね、劇場とか、あのむこっかわとかね。よくいるよ。」


いろは「どこかあんまりわからないねー…。」


「わかるよ!私案内できるから、ついてきて!」


その小さな子はとてとてと

幼い腕をぶんぶん振って

身軽に走っていってしまう。

まだ彼方との話も終わっていないのに、と

いろはの方を見ると、

彼女はここに止まる気なのか

ぼうっと眺めるだけだった。

これまでのいろはを見るに

追いかけるものだと思っていたが、

今回ばかりはそうではないらしい。


杏「え、これ…ついていった方がいいんじゃ?」


いろは「彼方ちゃんと話したいから、今はいいやー。」


杏「今じゃなかったら、次いつくるのかわかんないじゃん。」


彼方「気まぐれだからね。あの子。」


いろは「地域の子でしょー?」


彼方「多分…?」


杏「…。」


子供の速度だからか

まだ追いつけそうな距離を走っている。

川沿いは一直線なこともあり

背中が小さくなるのが僅かわかった。


放っておける気がしなかった。

その場にリュックを落とす。

そして気づけば

足を踏み出していた。


いろは「え!?杏ちゃんー!?」


杏「あの子、見たことある気がする…!」


電車に乗る前彼方を見て

追いかけた時のように

「待って」と後ろから声がすることはなかった。

うち1人、この街で迷って

出られなくなってしまうかもしれない。

それでも、この違和感を、

既視感を放っておきたくなかった。


ものの数秒で追いつき、

それと同時に角を曲がる。

女の子も疲れたようで、

とぼとぼ歩き出した。


「お姉ちゃんはやーい。」


杏「はぁ…はぁ…ありがとう…?」


「次こっち。」


杏「え、もう曲がるの?」


「次もう1回曲がるの!」


杏「そしたらまた川のところの道じゃ…。」


短い期間でUの字を書くように進む。

元に戻るだけだろう、と思っていた。

子供あるあるといえばいいか、

寄り道回り道をしたかっただけなのかな、と。


角を曲がってふと、風が吹く。

強い風。

ビル風だ。


目の前には先ほどいろはと通った

都市部が広がっている。

この路地を抜けると何故か

巨大な横断歩道だった。

周囲は当然のように

背の高い建物が並んでいる。

振り返ると、遠くに住宅街が見えた。


杏「…何で、何これ。」


「こっち、劇場ー。あのね、すごい人がいてね、綺麗なお姉さんがにこって」


杏「待って。あなたの名前、なんて言うの。どうしてさっきの道順で行くとここに通じるって知ってたの。」


ぱっぽ。

ぱっぽ。

横断歩道が青になる。

「あ!」と、女の子は

白線だけをとん、とん、と跳ねていく。

いろいろな方向から人々が

道を渡ろうと交差していく。

身長の低い子供が

大人の陰に隠れていく。

物音が多く、女の子の声が聞き取りづらい。

うちも自然と声を張り上げていた。


「私?私の名前ね、いい名前なの!パパとママがつけてくれた可愛い名前なんだ!お姉ちゃんは?」


杏「うち、杏。あ、ん、ず。あなたは!」


「私ね。」


その時。

人の波がうちと女の子の間を

濁流の如く強く押し寄せた。

何とか声を聞こうと、

姿を見失わないようにとそれに突っ込む。

姿は見えない。

けれど、鈴のような可愛い声が

耳を掠めたのだ。


アオイ「私、アオイ!」


アオイ。

あおい。

蒼。


髪の長さや童顔が理由で

わかりづらかったが、そうだ。

蒼だ。

あのくりっとした瞳も

きっちり切り揃えられた髪も

見覚えがあったのだ。

どうして蒼はここに

幼少期の姿でいるのだろう。

それを聞かなければならないと

焦燥感に駆られる一方で、

人の波はうちをアオイから

引き剥がそうとするかのよう。

手を伸ばす。

無論、届くことはない。


杏「待ってアオイ!アオイっ!」


その時、誰かに靴を踏まれ

バランスを崩してしまった。

こんなに人の多い中で

転んでしまっては

踏み殺されるのではないかと思ってしまう。

手を床に着くために

慌てて引っ込めようとした時だった。


「あんちゃん危ないっ!」


杏「…っ!?」


その声と同時に

引っ込めようとした手を引かれ、

無事に人の波から抜け出すことができた。

人の頭が流れていく。

足音があちらこちらから駆けていく。

その中で2人、

道路の真ん中で突っ立っていた。


柔らかい声。

ふわふわした髪の毛。

優しく垂れた目つき。

光の灯った瞳。

大きい手。

全て。

全て、あの時のまま。


杏「………こ…たろ……くん…。」


琥太郎「大丈夫、怪我はない?」


もういないはずの、

触れることなど2度とできないはずの。

…記憶の中で生き続けていた琥太郎くんが

目の前に存在していた。


数年ぶりにやっと

息を吸えた気がした。

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