粗面
ガシャ、と足元で音がする。
杏「うわっ……ってなんだ、ただのビニール袋…。」
下を見ずに歩いていたせいで
運悪くビニール袋を踏んでいた。
足を離すと、風に乗って身軽に飛んでいく。
朝でなくてよかった。
もし朝だったらこの不運のせいで
今日はツイてない日と錯覚していただろうから。
駅で琥太郎くんを見かけた日から
数日が経ていた。
その間にも、何度も同じように
一瞬だけ姿が見えては曲がり角や人影で消え、
追うとどこかしらを境に
ふっと消える現象が起こった。
隣の部屋に住んでいる一叶の通う
横浜東雲女学院に向かったところ、
身長の低くて髪の長い子が見えた。
ついて行った先は音楽室。
中からは若干掠れたような高音の歌声がする。
扉を開いて入ってみると
そこには誰もいなかった。
その翌日、もう1度シノジョに向かったところ
校門のあたりでその現象が起き、
ついていくと電車に乗っては
全く知らない路地裏へとたどり着く。
短い髪にシノジョの制服らしいものを
着ていたはずの人はここでいなくなった。
錆びた扉があり、夏も終わるというのに
隙間の至る所から雑草が背を伸ばしている。
謎の形をした石が
より奇妙さを増していた。
ツイートすると、
もしかしたらその路地裏のことを
知っているかも、と
教えてくれる方もいた。
4月には不思議なことに巻き込まれていたし
今回もその一件なのかもしれない。
そして昨日は校内で
背の高い人がちらと廊下の奥へ消えた。
追ってもどこで消えたのか、
3年生の教室あたりから
姿を見ることは叶わなかった。
背は随分と高かった気がするが
スカートを穿いていたので
女子学生なのだろう、
とまで想像はつくものの
ここ3日日間で見かけた人は全員
うちの知らない人だった…と思う。
杏「…。」
誰に相談すべきか、
そもそも相談したところで
どうにかなるような話なのか。
先生や身近な大人に話したとしても
心療内科をお勧めされるだろう。
親やその周辺の人には
家を出たというのに今更
縋りつこうとも思えない。
霊媒師…祓魔師…などと
まるでアニメやゲームの中でしか
聞かないような職業を思い浮かべる。
もし幽霊ではない、と
言われた時の方が問題なのだ。
それそこうち自身が
おかしくなっていること他ない。
いつになったらこの現象は収まり
終わるのだろう。
最近は考え事ばかりで
今日も例に漏れず、
すぐ家に帰る気にもなれず
回り道をして帰ることにした。
気温が下がってから
外を歩きやすいと感じる日が増えた。
それもあってか
回り道や寄り道が捗ってしまう。
そんな放課後のことだった。
何度目だろう、
住宅街の曲がり角で
また誰かが一瞬見えて消えて行った。
しかも今日に限って。
杏「…コタローくん?」
先週見かけて以来
この視界に入ることはなかった彼が
なんとまた現れた。
短い髪の毛と風に揺れるジャケット。
もしかしたら人違いかも。
そうとは思いながらも、
しかしどこか確信めいて
歩幅広く踏み出す。
杏「コタローくんっ!」
この前出会った時は
電車の中や横浜駅の中で声は届きづらかった。
けれど人通りのほぼない
住宅街でなら届くはず。
近所の人には申し訳ないが
今は彼を追いたかった。
声が家々の壁に跳ね返って響く。
前を歩いていた人がいくらか
うちの方へと振り返ったが関係ない。
初めてなのだ。
2度も同じ人が見えたのは初めてだった。
どうか止まって。
止まって。
うちから逃げたいのはわかる。
会いたくないのもわかる。
けれどどうか。
走っていても追いつけない。
見切れる瞬間、
毎度彼は歩いているというのに。
琥太郎くん本人ではないと
わかっているにも関わらず
どうしてここまで必死になる必要がある。
自身に問いかけても答えは出ず、
暴れる鞄を押さえつけてまた走った。
そしてたどり着いたのは
遊具がぽつぽつとあり
後はベンチのみ設置された
随分寂れた公園だった。
誰かが定期的に清掃しているのか
目立った汚れも歩きづらい等不便もない。
走ってきた道の先には
コンビニの光がわずか見えた。
公園には子供が数人
けたけたと笑いながら走って遊んでいる。
自転車が並べて駐輪されていた。
肩で息をしながら
あちらこちらを見回しても
もう彼の姿はどこにもない。
また見失った。
今回は公園が行き着いた場所らしい。
杏「あー…もう……。」
公園の入り口でしゃがみ込む。
子供達はそれに気づいたのか
幾分か声を落としていた。
ひそひそと話している姿が浮かぶ。
公園…どうして琥太郎くんはここに。
その時、どうしてこれまで忘れていただろう、
小さい頃彼と公園で
キャッチボールをして
遊んでいたことがあるのを思い出した。
まだ小学生で遊び盛りだというのに
家の関係で誰も近寄られず
寂しい思いをしていたところ、
琥太郎くんが連れ出してくれたのだ。
どこから見つけたのか
埃の匂いがする古びたグローブを2つ持って
ボールを投げ合った。
それがものすごく楽しくて
彼の仕事が忙しくない時は決まって
付き合ってもらっていた気がする。
この公園ではないのだが、
それを思い出せということだったのだろうか。
帰省こそするつもりはないが、
思い出の中に眠る公園や観覧車くらいは
実物を見に行きたいとすら思う。
そのくらい大切になった記憶。
今となっては。
杏「……っ。」
甘い、そして叫びたくなるほど苦い記憶。
ゆっくり立ち上がると、
子供達は既にけたけたと遊びを再開していた。
頭の中で過去の映像が
流れていたせいで
気づかなかったらしい。
改めて閑散とした公園を見る。
今いる公園は縁もゆかりもない土地のはずだ。
だけれど、行く先々では必ず
あんなことがあったな、と
思い出すものがある。
杏「……思い出の場所に連れていかれてる…?」
まるで思い出して、と。
忘れないで、と言っているようで
胸が締め付けられる。
忘れてしまいたい。
だが、忘れることこそ
逃げるも同義ではないだろうか。
自らの手で行った過去を
確と罪として受け止めて
忘れず歩むべきなのではないか。
長らく目を向けていなかった記憶の隙間に
心臓が嫌に早くなる。
風は涼しいはずなのに
背中からじわりと汗が滲む。
その時、タイミング悪く
ぽつりと雨が降った。
まるで泣いているようという比喩が
漸く身をもって理解できた。
雨の音が時折言葉のような形をした。
許さない。
そう言っているようにも聞こえて。
杏「…っ。」
根が張ったような足を1歩、
一瞬たじろいではまた1歩と後退り、
雨が降り始めたからと
頭の中で言い訳をして
その場から走り去った。
駅に辿り着き、電車に乗って
家に帰ってしまえば
そこは現実感しかない空間だ。
過去も未来も空想の中でもなく、
うちの現実があるだけだ。
うちの紛れもない今がそこに。
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