背面

昨日いろはの幽霊らしきものを見てから

心がざわついて落ち着かなかった。

帰宅してペットボトルから

そのままお茶を飲み

頭を冷やそうとしても、

早めに横になって瞼を閉じても、

嫌な予感と疑問、そして好奇心が

脳の隅を擽った。

数十分してやはり眠れず

スマホをいじっているうちに

自然と瞼に重しがのり、

結局夜中に眠りについた。


杏「んー…。」


下校しながら考え事をする。

これまで好きな韓国アイドルの曲を聴いたり

帰ってから何をして暇を潰そうかと

考えていたりしたのだが、

今日はそれらができるほど

脳の容量が空いていない。


いろはらしきそれは何だったのだろう。

明らかについてきてと

言わんばかりの行動だった。

そして決して追いつくことはできない。

幽霊や見間違い、空似以外なら

何が考えられるのか

ぱっと思いつくものはない。


仮に幽霊だったとして

よくついて行ってはいけないと言うけれど、

今回ばかりは特に何も起こっていない。

反対に、見えた人影が知り合いである以上、

ついて行かない方が

その人が危険に晒されるといった事象も

あり得るのかもしれない。

実はドッペルゲンガーで

本人と出会させるな…だとか。

いや、そもそも追いつけないのだった。

髪に靡く髪が頬をくすぐる。

焦ったくて耳にかけた。


駅に着きちょうど流れ着いた電車に

乗ろうとしたその時だった。

反対側のホームに

見覚えのある人がいた気がした。

スマホを見ており、

瞼は下を向いているため

どんな目つきをしているのかはわからないが

適度にくるくるとした髪の毛をしていた。

背格好もシンプルな服装に

ジャケットを羽織るファッションもまるで。





°°°°°





「あんちゃん。」





°°°°°





記憶の中の琥太郎くんにそっくりだった。


杏「…っ!」


乗りかけた電車から飛び降り、

慌てて駆けて反対側のホームへ向かう。

何段飛ばしかもわからないが

膝に大きな衝撃がくるほど

飛ばして階段を降りる。

「間もなく電車が参ります」と

アナウンスが遠く聞こえた。


こんな暑い日に

ジャケットを着ている人なんているわけない。

あれが本物の琥太郎くんなわけがない。

彼はこんなところにいない。

全てわかっている。

わかった上で足を止めることができなかった。

今度は階段を数段飛ばして駆け上がる。

近くをゆったり登る人々が、

同じ学校の生徒が振り向くのが

視界の隅で見えた。

すう、とホームに滑り込む電車。

それに乗る琥太郎くんらしき人影が

半袖の服を身につけた

他の乗車客に紛れて見えなくなる。


杏「待って。」


誰にも聞かれたくない

焦りに塗れた声が漏れた。

できるだけ彼の影を見た

車両に近づいたところで飛び乗る。

体温が急上昇していた分、

一気に冷やされて

気持ちの悪い汗が吹き出る。

人をかき分けて

数車両分大股で歩いた。

しかし、座席にもどこにも

琥太郎くんの姿はない。


杏「……。」


ため息をつきたいところをぐっと堪え

近くの扉横に身を寄せる。

反対方向の電車に乗ってしまった、と

今更ながら思い出すのだった。


電車が駅に停車するごとに

車両外に出て見渡すも

彼の姿は見えなかった。

同じ車両に戻るのも気まずく

いくつか隣の扉から乗車して

また次の駅へと向かう。

気のせい、見間違いかもしれない。

しかし、少しでも可能性があるのなら。


横浜行きの電車は

終点をアナウンスした。

もしここでいなければ

すぐさま戻ろう。

ちょっとした気分転換、

出かけただけと思えば

幾分か気が紛れる気がした。


慣性が働き、体が引っ張られ

ようやく停車した。

ぞろぞろと数多の人が

終点だからと降りていく。

まだ昼過ぎなのに

横浜はいつだって人が多い。

そんなことを思っていると、

また人の隙間に

琥太郎くんらしい人影が見えた。

気のせいじゃない。

確かに彼がいるのだ。

人違いの可能性は捨て切れないが、

それでもやはり止まる選択肢はない。


杏「…!すみません、通ります。すみません!」


人をかき分けて

走るのと同時に鞄が浮く。

改札を抜け、別の改札へ。

乗り換えて、さらに先の駅へ。

昨日のいろはと同様

見えるか見えないか、

見つけられるかどうか

ぎりぎりのラインを攻めてくる。

見つけて、追ってはまた

視界の隅で何とか見つける。

見失わないように集中して目を凝らし、走る。


短い息とじとじととした汗が出る。

走って、走って走って。

走った先。

たどり着いたのは、遊園地。

横浜駅から1番近く、

夏には花火も上がる場所。

お昼どきだからか

下校中に寄ったような学生や

大学生、社会人だろう、

綺麗に着飾った人々が

笑みを浮かべて遊んでいる。


杏「…コタローくん。」


そこで彼の影はなくなった。

どうしてここで消えたのか。

あたりを見回す。

時計のついた大きな観覧車があった。

見上げると首が痛くなるほど高い。


杏「…。」


まるでうちに

ここに来て欲しかったかのよう。

琥太郎くんが「おいで」と

手招いたも同義だ。

手のひらを上に差し伸べられた

大きく頼り甲斐があり、

骨のでっぱった手を思い出す。





°°°°°





揺れるから気をつけてね。

彼はそう言って当時小学生だった

うちの手をとって一緒に観覧車に乗った。

高所恐怖症ではないが、

足元が揺れたり人が豆粒になるくらい

高いところに行くのは

それなりに怖い。

ちょこんと冷たい椅子に腰掛け

窓の外を見ていた。

普段見上げてもてっぺんが

見えないほど高いビル群を

ずいずい追い越してビルの屋上が見えた。


琥太郎「いい天気。綺麗だね。」


彼が外を見て言った。

家で仕事をしている時は

険しい表情をしているところばかり

見ていたものだから、

彼の笑顔を見て嬉しくなった。

水の中にいるかのように足を動かす。


杏「うわあ!高いよ、見てみて人ちっちゃい!」


健気に声をあげる。

振り返ると快活そうに笑う彼の姿。

この笑顔をずっと見ていられたら。

そうだ。

うちの家にいるから

この笑顔が見れないんだ。

我ながら名案だと思った。

2人でどこかに隠れてしまえばきっと。


「そうだね。」


杏「ねーコタローくんも見て!」


「あはは。わかったわかった、あんちゃんそんなせかさんでよ。」





°°°°°





でも。


杏「…あー…もう帰ろ。」


数日前に同じ光景を見たような気がした。

夢か何かで見たのかもしれない。

珍しいことに最近は

琥太郎くんのことを思い出してばかりだ。

家を出て、自分のしたことを

隠すように忘れて。

…忘れようとしたはずなのに。

うじうじした自分が情けない。


遊園地から足早に去る。

目の前をカップルらしき人が通る。

付き合いたてなのか

初々しく距離が少し空いていた。

振り返ることはしなかった。


自分の影が伸びている。

数年前よりも長く、長く。

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