末男(五十六歳)③
ただ、一年前の出来事がすべてというのも語弊があるかもしれない。あれが多くの人のきっかけになったことに間違いはないと思うが、深刻な問題が山積する今の時代、そしてそれが実感できる割合が高いであろうこのA市において、もう傍観するだけでは済まなくなっているという潜在的な意識も人々の中に自然と芽生え、大きくなっていたのだろう。それが、私と同じように一年前に殻を破り、今回花開いた格好となったのだ。
もしその推測が当たっているならば、このたびの高い投票率くらいのことで終了とはならないはずだ。
そして私も、人々に選挙の投票の参考になるものを提供するという目標を達成してしまったわけだけれども、これで終わりではない。それは国政選挙ではまだ成し遂げていないということもあるが、新たな発想もわいてきたのである。
父が私に選挙に行くように言ったのは、日本の民主主義がずっと続くことを願っていたためだ。私は長いこと選挙にこだわってきたが、選挙だけが民主主義では当然ない。民主主義は、一人の国王が重要なことを何でも決めてしまうのではなく、国民全員が言ってみれば王であり、対等であるから、物事を話し合いで決定しようというものだ。民主主義は多数決だなどと、政治家ですらそういう勘違いした発言をすることがあるけれども、多数決は話し合いではどうしても決まらない場合に行う可能性があるという程度のもので、別に必須ではない。それを綺麗事だと言う人間もいるだろうが、そんなことはない。例えばある事柄に、賛成が十パーセント、反対が九十パーセントとなっていたとする。もし民主主義イコール多数決ならば、もう反対で決定であろう。しかし、賛成の十パーセントの人たちはその中身を熟知しての判断なのに対し、反対の者たちはよく理解しておらずイメージだけで反対しているというケースがあり、話し合いをすれば、あっという間に賛成と反対の割合が逆転することも起こり得る。また、話し合うことで、両者ともに持っていなかった視点や解決法などが導きだされる場合もある。話し合いなんて形式的なものだと言うのであれば、今すぐ国会議事堂をはじめとする議会は取り壊し、選挙の後、最も票を集めた政党の公約をすぐに実行すればよくなるが、果たしてそれで国民は満足できるだろうか。やればすぐに、いや、やらなくても、結果は見えているだろう。だからこそ、民主主義は結論を出すのに相当な時間がかかるなど最悪であるけれども、同時に他のやり方よりも優れた最善の体制だと言われているのだ。そもそも政党自体が話し合いをするグループであろう。それに所属しておきながら、話し合いを軽視する政治家は本当に愚かしい。普段党内で議論をせず、すべて採決だけして党の意見を決めているのか?
ともかく、民主主義の本質は、議論、話し合いだが、日本人は空気を読んだりしてそれを行う意欲が乏しい。スポーツなどの場合、観るのだけが好きという人もいるけれどもプレーした経験があるほうが強く興味を抱きがちであろうように、自分たちが議論や話し合いをしないために政治家たちの議論や話し合いへの関心も薄く、政治全般に対する無関心や低投票率にもつながっていたのだろう。ゆえに、日本人がもっと議論や話し合いをするように有効な働きかけをすることが、今後の私の大きな目標だ。
それは想像よりもかなり難しいだろう。欧米では長らく教育現場で議論の機会を多く取り入れているようだが、それでも黒人や移民などへの差別を払拭できないでいるのだ。倫理的に優れた結論を導きだすのみでは建前となって失敗することは明白だ。かといって、最も現実的な答えならいいわけでもない。「月曜日に休日を増やす制度は導入してよかったか?」などは興味を持って話し合ってもらえるテーマではないかと思うけれども、議論するのは楽しいんだなで終わってしまう心配もある。
それでも、私はやるであろう。残りの人生は短いと思っていたが、私より歳がいっている延岡さんのほうが私より遥かに若々しく、百歳になっても余裕で元気でいられているんじゃないかと思うほど生命力に満ちあふれていた。私もああなりたいし、心の持ちようでなれるはず、まだまだ人生終わりじゃないと感じさせてもらったのだ。
彼女は諦めずに努力し続けるコツとして、「頑張るけれど頑張り過ぎないこと」だと言っていた。「いいかげんは良いかげん」が座右の銘だそうで、若い頃大規模災害に遭ったときに近所の優しい人から教わったその言葉により、心の安定を保つ術を身につけたのだという。だから私も駄目で元々くらいの軽い気持ちで、しかしできる限り頑張っていこうと思う。
ちなみに、この前の選挙で、私は自分よりもA市が注目されたことのほうが嬉しかった。それまで意識したことはなかったが、私は何の魅力もないようなここA市に愛着を感じていたのだった。
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