末男(五十六歳)①

 すべてはあの日、いや、あの瞬間に始まったと言っていいだろう。

 約一年前のあの総選挙の日の夜、東京で大きい地震は起こらなかった。私がいるA市では震度三で、最も揺れた地点でも震度は四。あの緊急地震速報を見聞きした誰もが、機械や人によるミスだったんだろうと考えたに違いない。

 だが、そうではなかった。実際は緊急地震速報通りの震度六や七に相当する地震が起きていたのだ。

 それがどういうことかは、地震が収まった後、少し経ってから行われた気象庁の会見で明らかになった。

 実は東京とその周辺何キロかの地帯の地面下に「地中免震装置」というものがいつのまにか設置されていて、それにより地上の揺れが大幅に抑えられたのである。だから都内はどこも震度は三程度で、東京の中央付近が震源の直下型地震で揺れた範囲は狭かったために、その装置が施されていない場所でも震度は最大で四で済んだのだ。

 そして、気象庁のからまた少し時を置いて、今度は総理大臣によるその件についての緊急の会見が行われた。

 どうして国民にその装置のことを知らせていなかったのかというと、かなりの確率で地上の揺れを大幅に抑えられることはわかっていたものの、あくまでも計算上の話であって、実績はゼロであり、安全とは言いきれない。しかし、そのようにちゃんと伝えても、公表すると多くの人が安心してしまい、防災意識が低下しかねない。そうなって、巨大地震が発生してうまく装置が働かなかった場合、被害が甚大になるおそれがある。そういうわけで伏せていたのだと説明した。

 そこで終わっていれば、納得がいって、問題はなかったかもしれない。だが、総理はその後、大きかった今回の地震の被害を食い止められた手柄がすべて自分たち政権や与党にあるような態度をとり続け、それには大半の国民がみっともなさを感じたのだ。というのも、その装置が設置されたわずかな範囲に震源地があったという運の良さは誰の目にも明らかだったし、揺れが小さくても死者やケガ人がいないとは言いきれない段階だったうえに、ほぼ東京だけ地下にそんないいものを取りつけていやがったのかなどと他の地域の人たちは腹立たしい感情もわき上がっていたかもしれないのに、そうした点はまったく頭にない様子だったのである。そうでなくても単純に自慢をするようなその姿に見苦しい印象を抱いた人も多かったろう。選挙の高揚感が手伝ったのかもしれないが、総理は間違いなく浮かれていた。

 また、選挙だったゆえに同じくすぐ話ができる状態にあった野党のトップたちも次々と即座に会見を行い、自分たちのほうが今回の首都直下地震をはじめとする災害への対策の必要性はかねてから強く主張しており、それを国会で迫ったことなどによる今回の成果だの、政府のやることに何でも反対ではなく、良い政策には協力を惜しまないうちの党の姿勢こそがこのたびのような素晴らしい結果をもたらしただのと、ほとんどの人が本当なのかもわからなければ、本当であってもたいした内容ではない言い分で胸を張った態度を示したことで、総理同様に国民を呆れさせた。

 とはいえ、通常なら何千、何万人と出たかもしれない死者を生まなかったという結果が結果なだけに、今回ばかりは少なからず仕事をしたのであろう政治家たちを評価しようという流れになりつつあった。

 しかし、それはすぐに吹き飛んだ。実はその成功は、延岡とわという名前のたった一人の女性の力によるものだったと言える事実が判明したからだ。

 延岡さんは東京都の職員で、自らが未成年のときに大規模災害の被害に遭ったこともあり、業務の防災の仕事に人一倍熱心に取り組んでいた。さまざまな対策を講じ、死者など予想される被害を大幅に低下することができた。けれども、市区町村の住宅耐震化の担当者と話をした際、費用のみならず、いろいろな事情でどうしても耐震工事を行うのが難しい人々がおり、そうした人たちが住む家屋の多くが老朽化が激しくて危険度が高いうえに、大きい地震が起きて亡くなることは避けられたとしても、その後の生活で他の一般の人たちより何倍も苦労する状態に陥ることが目に見えているという実情を知り、なんとかそういう人たちをも守ることができないものかと、ずっと頭を悩ませていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る