末男(五十五歳)④
「な、なあ!」
「はい?」
「机の上にあった紙の束、知らないか?」
「え? ゴミでしょ? 捨てたけど」
なっ。
「何言ってるんだよ。捨てていいって言ったのは、床に置いといたやつだよ。机の上のは要るんだ。ちゃんと言ったよね?」
「あら、そう? 机の上のも同じようにまとめてあったから、てっきりゴミだと思っちゃったわ。ごめんなさい」
……。
「ほ、本当に捨てたのか?」
「はい。間違いなく」
「……嘘だろ……」
何年、いや、何十年もの間、少しずつ集めたり書いたりした選挙の資料が……。
「この人、今回は当選するの難しいんじゃないかしらね?」
……。
「どうしたの? 選挙の番組をやってるっていうのに、ぼーっとして」
「ああ……」
「もしかして、捨てちゃったやつのことで? そんなに大事なものだったの? ごめんなさいね」
「……いや、いいんだ」
仕方ない。きっかけがなくて父の話をしていないにもかかわらず、妻は私の選挙への異常と思ってもおかしくないくらいの熱心な態度に奇異の眼や嫌悪感を示したりしたことはこれまで一度もなく、それどころか協力的で、今日だって嫌な顔一つせず私が帰るまで晩ご飯を待ってくれていたんだ。それに、綺麗好きで要らないものはすぐに捨てる性分だから、増える一方だった私の選挙の資料が不快だったろうに、ずっと文句を言わないでいてくれたのだ。口にしていた通り、必要なのと捨てるのを同じように整理してしまった私にも問題はあったのだし、今回の件だけで妻に腹を立てるなんて図々しいにもほどがある。
作り話だったらこんな間抜けな結末はそうないだろうけれども、現実の世の中というのは案外そんなものだしな。そんなバカな手口に引っかかるわけがないと思うような詐欺に、たくさんの人がだまされてしまっているだとか。
だいいち、本当はわかっていたんだ、私ごときが多くの国民を選挙に行く気にさせるなんて無理なことくらい。目に見えて少なくなってきた残りの人生で、増していくであろう不安や憂鬱をできるだけ感じないように、実現可能で打ち込める大きな目標があると自分に思い込ませていただけだ。
しょうがない。現実を受けとめよう。この先、私も日本もあらゆる面で落ちていく一方だろう。それも、下降はすでに始まっているであろうが、これからは急角度で一気に奈落の底となるかもしれな……
「緊急地震速報です」
え?
「画面に表示されている地震が起こると思われます。警戒してください」
! 東京、震度六から七?
「うそ! ちょっと、あなた……」
い、嫌だ。残りの人生の希望は失ってしまったが、死ぬのはまだ早い。
まだ死にたくはないっ!
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