輝美(四十六歳)③

 斜め前の方向から私の名字を呼ぶ声がした。視線を向けると、一番上の息子と小、中学校で一緒の平田くんのお母さんだった。

「こんにちは。暑いですねー」

 目の前に来た平田さんに笑顔でそう言われ、私も微笑んで答えた。

「本当に」

「久しぶりね。お元気でした?」

 平田さんは、昔は大勢いた、誰に対しても気さくに話しかける、おしゃべりが好きな近所のおばちゃんといった感じの人だ。ほんとに、お互いの家はそんなに離れてないのに、前に顔を合わせてからどれくらいぶりだろう? 一年は経つんじゃないだろうか。

「はい。そちらもお変わりなく?」

「ええ。元気過ぎて困っちゃう、なーんてことはないですけど、調野さんは仕事もバリバリなさってるから大変じゃないですか? お買い物の帰りでしょう? 私は家事は平日にほとんど済ませて、日曜日は休日みたいに過ごしてますけど、そういうわけにはいかないですものねー?」

 そういや平田さんは専業主婦だったか。今、思いだした。大概の大人の女性はそういうことを忘れたりはしないようだが、私は人の社会的な立場なんかをまったく気にしないからな。

「いえ、私も普段は仕事の帰りに済ませて、日曜日に買い物はしないんですけど、今日は選挙に行ったので、そのついでで」

「あら、そうなの。偉いですねー、選挙に行くなんて」

「はあ」

 やっぱり選挙に行くのは珍しいことなんだな。同じくらいの歳の人に、そんなに真剣じゃないにしても、褒められるとは。

「そういえば、けーくんは、何か運動の部活に入ってたんじゃなかったかしら?」

 接点のない真ん中の息子のことまで、よく知ってるな。私が教えたんだっけ? にしても、すごい記憶力だ。いや、母親という立場なら、平田さんのほうが普通なのかも。

「はい。陸上部です」

「たしか運動部は日曜日も活動しますよね。とすると、今日は選挙で学校を使うから、お休みだったのかしら?」

「そうらしいですけど、うちの、熱を出してしまって、どっちみち休むことになっていたと思うので、ちょうどよかったみたいです」

「あらー。大丈夫なんですか?」

「はい。もうピークは過ぎたようですし、帰ったら遊んでいるかもしれません」

「そう、よかった。とはいえ、くれぐれもお大事に。調野さんや他のご家族も、うつって具合が悪くならないように、お気をつけてね」

「はい」

「ところで、蓮くんは来年、大学を受験されるの?」

「そう、みたいですね」

「やっぱりねー。高校と大学、同時に受験だから大変ですね」

「ええ、まあ。でも、二年続くよりは一度に済んだほうがいいというのもありますけど」

「それにしても、お二人とも勉強ができるから、それほど心配はされてらっしゃらないんじゃありません? うらやましいわー」

「そんなことないですよ。まだ先だからと考えないようにしているくらいで、悪い想像ばかりしちゃいます」

「あら、ごめんなさい。じゃあこの話、しないほうがよかったかしら?」

 ありゃ。平田さんが驚いたような表情になった。ちょっと私の今の言葉に感情が入り過ぎてしまっていたみたいだ。

「いえいえ、大丈夫です」

「それじゃあ、どうも」

 平田さんはまたにっこり笑って、会釈をした。

「あ、はい」

 私も頭を下げると、平田さんは少し急ぐ感じで去っていった。

 ふー。最後少々焦ったけれど、無難に話せられたよな。

 今のような母親や主婦同士の世間話というのが私は得意ではない。そんなつもりはないのに、相手のしゃくに障ることを言ってしまう気がして。何がお気に召さないかは人それぞれ違うし、気分を害しても大人なので相手がその場でそれを指摘することはまずないが、だからこそずっと悪い感情を持たれそうで怖い。

 ところで、平田くんは進路をどうするんだろう? なんか、人に訊いておいて、自分とこの話はしたくないから、さっさと帰っていった感じもするが。うちの子を勉強ができてうらやましいと言ってたから、向こうも大学を受けるのかな。

 まあ、何でもいいけどね。他の人や家庭がどうだとか、ほんと私はどうでもいいから。

 しかし受験は本当に心配で嫌になっちゃう。自分が生徒だったときはそんなに不安や緊張をしなかったが、子どもは別だ。確かにうちの息子たちは勉強はできるほうだけれど、それと心配はまったく関係がない。

 だけど、今さらながら、なんで入試なんてものをやるんだろう? 不思議でしょうがない。

 また憲法の話になっちゃうけど、教育を受ける権利が保障されているんだから、学びたい人は全員入学させるべきじゃないの? こっちはお金をもらうんじゃなくて払うほうなんだし、乗車拒否みたいな感じで選別して構わないって、どうなの? それも、テストの点が良かった優秀なコを入学させるわけだけど、できないコのほうが学習する必要があるんだから、そのコたちに勉強する場を与えないって、おかしくない? いくら義務教育ではなく高等教育といっても、今の時代、高校や大学に行っていないと困ることになる確率は高いんだから。

 子どもの数が多かった頃は、希望者全員を入学させたら教室に入りきれずに授業にならないなどと言われた場合、反論するのは難しかっただろうが、今はリモートでできるんだし、子どもが減っているどころか定員割れの学校も珍しくなくなってるみたいだから、入りたいコを全員入学させるのは不可能でもなんでもないところはいっぱいあるだろうしさ。

 要するに、もし入試をなくせば、全然勉強しないで入学してきて、授業にまったくついていけないコが続出したりだとか、学力がひどく低下してしまうという考えがあるんだろう。大学で学生の学力が低過ぎるために高校までの勉強の補習をやっていると一時期よく報じられていたから、すでになっているわけだが。

 だけど、受験で競争させることによって学力を上げようって考え方だから、少子化で昔ほど頑張らなくても入学できる環境で、学力は落ちてしまっているんじゃないの? 競争を否定するんじゃなく、プラス面があることもわかるけど、今の日本の状況からすると少ない子ども全員が言わば勝ち組になってもらわなきゃ困るはずだし、ちょっと頭の中でシミュレーションしてみると、入試を廃止したほうがかえって学力は向上するんじゃないかと思うんだけど。

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