昇(七十二歳)④

「お父さん。私、選挙に行ってきますね」

 自宅の居間で横になって読書をしていたら、妻が近くにやってきて、そう声をかけられた。

「ああ」

「うちの選挙区のなかから一人と、いいと思う政党を一つ、選んで書けばいいのよね?」

「うん」

 あ、そうだ。

「あと、最高裁判事の審査もあるからな」

 離れかけていた妻に、呼びかけるようにして言った。

「え? なあに? それ」

 妻は足を止めて、再び私に顔を向けた。

「何って、そのままだよ。最高裁判所の十人くらいの裁判官の名前が記された紙を渡されて、その人たちが問題ないと思うか印をつけるやつ。いや、問題ないと思えば何も書かないで、問題があると思えば、その人の名前の欄にバツをつけるんだけど」

「やだー。何なの? それ」

「あれ? 選挙には大概行ってるよね?」

 一緒には行かないが、妻は今みたいに大抵私に声をかけてから投票に向かう。そして欠かさず行っているくらいの印象がある。

「うん、まあ、行けるときはだいたいね」

「じゃあ、やったことあるだろう。それも、何回も。たしか衆院選のときだけだけど、最近始まった制度じゃないんだし」

「そう? ま、そう言われれば、なんとなくやったことがあるような気もしてきたけど」

 絶対にやってるよ。

「でも、どうしよう。誰がいいのか悪いのかなんて全然わからないわ」

 ほら。やっぱりそうだよな。

「確かにな。まあ一応、議員の候補者と同じように、経歴なんかが書かれたものがあるはずだから、それを見ていけば?」

「あら、そう。選挙公報みたいの?」

「そうそう。家のどこかにあるよ、見たんだから」

「じゃあ、そうするわ。どこかしら?」

 妻はそれを捜しにいった。

 少々抜けているものの、わからないからテキトーでいいやとしない真面目さが彼女のいいところであり、私が好きな部分の一つでもある。

「あった。これよね?」

 戻ってきた妻は、私の間近まで来て紙を見せた。

「うん。それだよ」

「ふーん……」

 その用紙に目を通している姿は明らかに、どうしようか考えているよりも、どうしたらいいか困惑している。

「困るよな、その人たちにまったくなじみがないのに、ほとんどそれだけで判断しろだなんて。政治家のほうも十分とは言えないけど、裁判のニュースのとき、判決がどうだったかだけで、裁判官が誰かなんて全然気にしないし、議員の候補者に比べてその人たちについてメディアはほとんど報道しないしさ。それに、いいと思う場合だけじゃなくて、面倒だから何も書かないで箱に入れたっていうのでも信任したことになっちゃうんだから、本気で審査させる気なんかないんだよな」

「そう……。で、あなたはどうしたの?」

「どうって?」

「誰かにバツをつけたの?」

「……いや、誰にもつけなかったよ」

「あら、そうなの。でも、この人なんて、原発の住民の訴えを退けたみたいじゃない。いいの?」

「え? あー、そうだったっけ?」

「何よ、ちゃんと見てないの? あれだけ原発のニュースを目にするたびに『ひどい』とか『許せない』って腹を立てるのに。あなたも案外いいかげんねえ」

「そうか、そんな大事なのを見落とすとは、僕も歳だな。いや、見たけど、その訴えに関しては退けてもしょうがないと思ったんじゃなかったかな?」

「ふーん。じゃあ、行ってきますね」

「審査のやつ、どうするか決めたのかい?」

「ええ」

「どうするんだ?」

「秘密よ」

「何だよ、人には言わせといて」

「ふふふ」

 妻はいたずらを成功させた子どものような顔をして居間から去っていき、すぐに玄関のドアを開閉して外へ出ていく音が聞こえた。

 やれやれ。

 私はまた横になった。

 本当は、紙を見て原発の訴訟の件は評価せず、ちゃんとそのことは頭にあったが、投票所でバツを書きはしなかったんだ。私がバツをつけたところで、どうせ罷免されたりはしないからな。

 選挙に行かない今どきの若者と同じような言い分になってしまうけれども、だからこそ私は若者に寛容なのかもしれないな。そう意識していたわけではないが、私が毎回投票にいっているのは結局のところ、単なる義務みたいなものだ。

 七十年以上生きてきて、よーくわかっている。世の中は思い通りになんてなりゃしない。物事が良いほうにはそうそう変わらない。弱く苦しんでいる者たちを、政治も行政も司法もほとんど救わないではないか。

 立派な人間たちがどんな言葉を並べようと、実際問題それが現実だ。

 世の中なんて、そんなものだ。

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