第55話 王室離脱



(こいつっ!)


 王太后の部下霧夜きりやの剣を槍で防いだ瞬間、夏乃なつのは広間に薄明かりが差していることに気がついた。酷薄な男の顔も、衛士から奪ったらしい剣の刃もよく見える。

 同時に、今まで聞こえなかった広間の音も聞こえてきた。あちこちで侍女が悲鳴を上げ、王のわめく声もする。


 一瞬騒がしさに気を取られそうになるが、目の前には槍の柄に刺さった霧夜の剣がある。わずかでも気を逸らせば命はない。

 槍を握る手にさらに力を込めた夏乃は、脇腹の痛みが消えていることに気がついた。珠里しゅりの呪詛が消えたのだろうか。

 とは言え、力による攻防は夏乃の方が不利だった。次第に槍を握る手がプルプルと震えはじめてしまう。


 このままでは本当にへし折られてしまうと思った時、どこかから「引け!」というハクの声が聞こえてきた。

 その声に従うべく、夏乃は反動をつけて槍の柄を手放し後ろへ飛んだ。

 霧夜きりやも瞬時に槍の柄ごと剣を捨てる。

 夏乃と霧夜の間にぽっかりと空いた空間に、珀が体を滑り込ませてくる。彼はどこからか調達してきた槍を霧夜に向けた。


「夏乃」

 後ろから名を呼ばれた。

 月人つきひとの声だと思った途端に手を引かれ、後ろからぎゅっと抱きしめられる。

「あとは珀と冬馬トーマに任せろ」


 耳元で囁かれて前を向けば、冬馬が珠里しゅりを捕らえようとしているのが見えた。


「あの侍女は呪師ですよ!」

「大丈夫だ。冬馬は精神攻撃には強い。実際に毒を仕込まれなければ大丈夫だ」

「ああ……確かに」


 月人の腕の中にいると暖かさがじんわりと伝わってくる。緊張感が一気に抜けてしまい、夏乃はぼんやりと広間の中を見渡した。


 一段高い王座の辺りだけ行灯あんどんが灯っている。わずかな光に照らされた広間には、無残に蹴散らされた衝立やお膳が散らばっている。

 上座の壁際で身を寄せ合う王と王妃。その周りを固める衛士たち。広間の出口付近には使者や侍女たちが集まって震えている。


 そんな中、上座からこちらを凝視している赤い衣の女――――王太后がいた。彼女は衛士とは別の兵士たちに守られ、女王のように毅然とした姿で立っている。


(王太后……)


 これが賊による襲撃でないことは、もはや誰の目にも明らかだった。

 王太后が月人を亡き者にしようとしている。

 宮中で働く者ならば、王太后と月人の母の確執を知らぬ者はいない。彼女が亡くなってからその標的が月人に移ったことも周知の事実だ。彼は幼い頃から父王が亡くなる二年前まで、この王宮で冷遇され続けてきたのだから。


「義母上!」


 夏乃の背後で、月人が声を上げた。


「――――いいえ、王太后さまと呼ぶべきでしょうね。わたしは今まで……わたしが王宮から去れば、あなたの憎しみは消えるだろうと思っていました。

 ですが、それは間違いだったようです。あなたはわたしを呪詛し、それが効かないとわかると刺客を送ってきました。此度の招待も、わたしを亡き者にする為だったのでしょう」


 堂々と声を張る月人は凜として見えたが、夏乃の体を抱く両手は小刻みに震えていた。

 月人は今、幼い頃から植え込まれた恐怖と戦っているのだ。そう思うと居てもたってもいられず、夏乃は彼の腕に両手を重ね、グッと力を込めた。

 すると、笑ったのか、温かな小さな息が夏乃の頭にフッとかかった。


「わたしは、今日をもって、王室から離脱いたします。二度とあなたの前に姿を見せないと誓います。お望みなら、この碧海国へきかいこくからも去りましょう。それで手を打ちませんか? 兄上にも了承頂きたい」


「へっ? あ、ああ……いや、わしは……まさか、母上がそれほど思い詰めていらっしゃるとは思ってもみなかった。そなた……国を出て、どうするつもりだ?」


「さぁ、今はまだ何も……一度、母の故郷を訪ねたいとは思っていますが」


「そうか……そなたがそう言うなら、了承しよう。母上もそれで良いですね?」


 王の呼びかけに、王太后は答えなかった。

 憎しみのこもった眼差しで、じっと月人を見つめていた。


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