第54話 少女呪師



 見えるはずのない朱色の衣が揺れている。

 それを見て、夏乃なつのは異変に気づいた。真っ暗だったはずの広間はいつの間にか闇が薄らいでいて、その薄闇の中には夏乃と朱色の衣の女しかいない。


(なに……これ?)


 異変に動揺しながらも、夏乃は何とか槍を構えた。

 敵を前にボーッとしている場合ではない。この何もない空間を彼女が作ったのならなおさら油断は出来ない。

 そう思った瞬間、いきなり右脇腹に激痛が走った。相手からは何の攻撃もなかったのに、脇腹にズブリと何かが差し込まれる。


「あうっ……」


 炎で焙られるような痛みに嫌な汗が滴る。

 脇腹を見下ろせば、銀色に光る細長い何かが脇腹に突き刺さっていた。それは何故かゆらゆらと揺れていて、剣ではなく銀色の縄のように見えた。


(な、んで縄が……や、違う!)


 夏乃の脇腹に突き刺さっていたのは、銀の鱗を持つ蛇のような生き物だった。刺さっているのではなく、夏乃の腹に喰らいついているのだ。

 ブルブル震える手を伸ばし、夏乃は銀色の蛇をつかんで引き抜いた。

 自分の血潮が飛び散るのを感じたが、何かが変だった。


 ぐらりと視界が歪み、眩暈がした。

 つかんでいたはずの銀色の蛇は、どういう訳か手の中で塵となって消えてしまった。

 ドクドクと響く血潮の音を聞きながら夏乃はゆらりと頭を上げ、薄闇の中に佇む朱色の衣を纏った女に視線を向ける。


(間違いない……王太后の侍女だ)


 苦悶の表情を浮かべる夏乃を見て、珠里しゅりは口端を吊り上げて笑った。


「おまえの命はあと僅か。魔物の毒が、今おまえの血潮を巡っている。毒が心の臓に到達すれば命はない」

「魔物の……毒?」


 銀色の蛇は消えたが、脇腹の傷は脈打つ痛みを訴えている。


(これは……現実? それとも、幻覚?)


 呪術のことは何一つわからない。広間から別の場所へ移った自覚はないが、毒は本物で、今まさに、夏乃の体の中を巡っているのかも知れない。

 冬だというのに珠のような汗が吹き出し、頭の先から冷たくなってくる。

 槍の柄が、力を失くした手の中からスルリと滑り落ちそうになるが、慌ててぎゅっと握りしめ、夏乃は深呼吸を一つする。


(毒が本物なら、時間が経つほど動けなくなる。なら……せめて動けるうちに倒さないと!)


 夏乃は歯を食いしばり、痛みをこらえて一歩踏み出した。

 両手で槍を握り縦に構える。視界は悪いしフラフラするが、相手はそれほど遠くない。

 もう一度深呼吸をして、構えていた槍を、前に出ながら下から上へと突き出した。


「やぁーっ!」


 突き上げた槍が珠里の身体をかすめる。咄嗟に逃れようとしたのか、珠里はサッと後ろに身を翻しながら手の平を突き出した。

 そこから飛び出す銀色の光。


(また蛇か?)


 かすむ目を凝らしながら銀色の光を横に薙ぐと、銀色の光はキラキラと霧散した。


「おのれっ!」


 珠里は再び銀色の光を放ったが、夏乃の槍は全てを薙ぎ払った。

 不思議なことに、動くたびに苦痛が薄れてゆく。


「おまえは何なの! なぜ私の呪詛が効かない? 毒茶を持たせた時もそうだった! ほんの少しでも王太后さまのことを漏らせば、紅羽くれはと同じ呪いがおまえを殺すはずだったのに!」


「紅羽と……同じ呪い?」


 夏乃はカッと目を見開いた。

 紅羽と最後に会った地下牢での出来事が脳裏に蘇る。紅羽は月人を呪う呪物の在処を夏乃に伝えた途端、血を吐いて倒れ、そのまま目を覚まさなかった。

 今思えば、あの時、紅羽は死を覚悟していた。特に最後は、まるで命が途切れる前にすべてを話そうとしているようだった。


「まさか……紅羽は、呪いのこと、知ってた?」

「当然でしょ? 裏切らせないための呪いですもの。みんな死の呪いが怖くて口を割らないわ」

「紅羽は教えてくれたよ! 確かに彼女のしたことは許されることじゃない。けど、月人さまが無事なのは紅羽のおかげなんだから!」


 沸きあがった怒りのまま、夏乃は珠里の身体を槍の柄で薙いだ。床に倒れた珠里に馬乗りになると、平手で思い切り珠里の頬を打った。


「あんたが紅羽を殺したんだ!」


 悔し涙が頬を伝った。

 人を殴ったのは生まれて初めてだったけれど、夏乃に出来るのはここまでだった。これ以上彼女を痛めつけることも、もちろん殺すことも出来ない。

 ならば、どうしたら良いのだろう。

 夏乃の心に迷いが生じた時だった。


「────後ろっ!」


 闇を斬り裂くような大声が、背後から聞こえた。

 同時に、ゾワリと背筋を駆け上る殺気。

 夏乃は珠里の上から飛び退きながら、見えない敵に向かって槍を薙いだ。


 ガンッ!


 槍の柄に刃が食い込んだ。

 力ずくで押して来る相手を何とか防いでいると、灰色の空間が霧のように散り始め、目の前に男の顔が見えた。


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