第49話 珠里


 ――――王宮の厨房。

 夕餉の膳を受け取った年嵩としかさの侍女が、ゆっくりと回廊を歩き出す。

 月人つきひとの若い侍女が突然姿を消してから、彼女が月人の膳の上げ下げをしている。


(ふぅん……王宮の侍女の手は借りないのね。用心深いこと)


 少し離れた柱の陰で、珠里しゅりは笑みを浮かべた。

 赤い唇が弧を描き、その瞳はえものを狙う猫のように年嵩の侍女を眺めている。


 年嵩の侍女がずいぶん遠くなってから、珠里はゆっくりと歩き出した。

 すでに夜の帳が降り、王宮のあちこちには灯明が灯されている。広間ではとうに宴が始まっている頃合いだ。



『――――どうやら月人は、今夜も宴を欠席するらしいな』


 王太后の艶やかな声が今も耳に残っている。

 彼女は横目で珠里を見つめてそう言っただけで、別段何かを命じられた訳ではないけれど、珠里は、それが無言の命だと心得ている。

 月人の様子を見てこい────ということだ。


 微笑む紅麗こうれいに、珠里はうやうやしくこうべを垂れ、その足でここへ来た。


(どうせなら、殺せと命じて下さればいいのに)

 珠里は不満げに唇を尖らせる。


 自分ならば、あの膳にを混ぜる事など容易たやすい。

 毒と違い、呪はある特定の状況になって初めて毒となる。

 珠里が呪を込めれば、あの膳は毒見役を殺すことなく月人の元へと運ばれるだろう。そして、月人が料理を口にしてはじめて毒となるのだ。


 珠里は呪師であることに誇りを持っている。必ずや、拾ってくれた王太后の役に立ってみせるという気概もある。

 雪夜ゆきやは剣で首を落されたらしいが、紅羽くれはを殺したのは珠里の呪だ。彼女には〈裏切りの呪〉をかけておいた。まさか本当に裏切るとは思っていなかったが、おそらく酷い拷問でもされて口を割ったのだろう。

 しかし、をかけた夏乃は、呪が発動する間もなく月人の護衛に殺された。


(きっと、裏切る暇もなく殺されたのね……)


 そう思うのに、心のどこかに釈然としない思いがある。

 もっとも、一番納得できないのは、王太后と珠里が力を合わせて練り上げた、犬を使った呪詛が効かなかったことだ。


 犬を使う呪詛────狗毒クドク蟲毒コドクの一種で、呪の毒性は強力だ。呪われた者は犬のように牙をむき、苦しみぬいて死ぬ。どんなに体力のある者でも一週間は持たないはずだった。

 なのに、月人は呪詛の障りを一切受けていない。


(まさか……呪詛が効かないのは、あやつ自身が魔物だからか?)


 王弟が魔物だという噂はよく聞いていたが、珠里は信じていなかった。異母弟を厭う王の虚言に違いない。そう思っていたのだが────。


(確かに、月人の母親は異国の魔女だ。半分とはいえ魔女の血を引いているのだから、月人が魔物だったとしても不思議はない)


 珠里は、美しい紅麗の顔を思い浮かべた。

 狗毒による呪詛を成したとき、王太后はその身の力を使い切ってしまった。もはや呪師としての力は無い。それゆえに、今後は珠里が呪師として力を発揮せねばと思っていた。


(紅麗さまは何故、わたくしにお命じにならないのかしら? わたくしではなく、霧夜きりやに暗殺をお命じになるなんて……)


 悔しくて口端をギリリと噛んだとき、月人の宮が見えてきた。


(いっそのこと、あの侍女にぶつかって、月人の御膳に呪を振りまいてやろうか?)


 そう思いつめ、珠里が足を速めた時だった。

 月人の宮の出入口から、若い兵士が顔を出した。年嵩の侍女を労うように、御膳を受け取ろうと手を伸ばしている。


 ドクン、と心の臓が跳ねた。


(あれは……まさかっ!)


 どんなに姿を変えようと、呪師である珠里の目は誤魔化せない。

 人の魂にはそれぞれ違う彩りがある。呪師はその彩りを見ることが出来るのだ。そして目の前の若い兵士は、間違いなくあの娘と同じ魂の彩りを持っている。

 一瞬で、珠里の心は怒りに染まった。


(まんまと騙されたわ! あんな小娘が、いったいどうやって、わたくしの呪を解いたというの?)


 珠里の胸に沸きあがったのは、己の呪を無効化された疑念と悔しさ。そして、ほとばしるほどの殺意だった。


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