第19話 ひとときの平和


月人つきひとさま、夏乃なつのを連れてきました」

「ご苦労」


 優雅に長椅子に腰かけた月人は、まるで人形のように無表情だった。

 床に下ろされた夏乃は、もう逃げ出す気力も無くその場に正座した。


「せめてそなたに礼をしたくてな。着物なら余分にあってもよかろう?」


 月人がそう言うと、脇に立っていた冬馬トーマが長方形の黒塗りの盆を夏乃の前に置いた。

 黒塗りの盆にはきれいな桃色の着物が乗っていた。鮮やかな上着から、薄桃色の巻きスカートまでがグラデーションのようになっている。

 明らかに絹でできた上等な着物だった。


(これから貝割り作業に戻る人間に、絹の着物って……)


 突っ込みたかったが、夏乃は静かに頭を下げた。

 これで終わりだと思えば、着物を貰うことなど何でもない。


「そなたは……汐里しおりという侍女と親しかったそうだな?」

「は……い?」


 嫌な予感がして、夏乃は恐る恐る月人を見上げた。


「では伝えておこう。汐里は今朝早く、牢内で自害していた」


 無表情のまま、月人は汐里の最期を伝えた。


「そんな……どうして?」


 頭が混乱して、めまいがした。


「ただの侍女なら自害はすまい」

「汐里が間者だなんて……あたしには信じられません!」


 夏乃が反論しても、月人は表情を変えなかった。


「そなたのように、目に見えるものだけを信じられたら幸せだろうな」


 月人の言葉が胸に刺さった。



〇     〇



 冬晴れの青い空が広がる浜辺の作業場。

 十日ぶりに戻って来た貝割り作業場は実に平和だった。生臭さと寒ささえ我慢すれば、身の危険はない。


「はぁー、やっぱこっちがいいや」


 気分が落ち着くと、夏乃は今までに自分が稼いだ銀の粒の価値が気になりはじめた。

 その夜は久しぶりに温泉に行くことになったので、聞いてみることにした。


「ねぇ、紅羽くれはは都の近くに住んでたんだよね? 都では一日いくらあれば生活できるの?」

「うーん、安めの宿屋と食事で、銀三粒もあれば生活出来るんじゃないかな」

「銀三粒かぁ」


 夏乃は、前にもらった銀の粒とお屋敷を出る時にもらった銀の粒を、頭の中で数えてみた。

 紅羽の言葉通りなら、二十五日くらいは暮らせそうだ。


(なるほど……)


 温かい温泉につかりながら、夏乃は降って来そうな星空を見上げた。




 ────その同じ星空を、月人も見上げていた。

 夏乃の血による解呪の効果はすでに消え、獣姿だ。


「月人さま。ここはお寒うございます。そろそろ中へお入りください」


 心配性の冬馬が声をかけても月人は動かなかった。その代わり、耳をだらりと垂らしてしょぼくれた顔を冬馬へ向ける。


「まったく、あの娘のどこがそんなに気に入ったのですか? 解呪の血以外に役に立つことなどないでしょう? ああぁ……わかりましたよ。そんな顔をなさらないで下さい。少し貝割り作業をすればあの娘も落ち着くでしょう。すぐに呼び戻しますから」


 冬馬がそう言うと、垂れていた黒犬の耳がぴょこんと立ち上がった。


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