第五章 間者と呪物
第27話 月人の想い
夕餉をとった後、
珀の動きを追っているうちに、だんだんと自分の無駄な動きが削ぎ落されて、動きが良くなってゆくのがわかる。
考えなくても自然に手足が動き、珀の槍を防いでくれる。
「うん、いいぞ」
珀は褒め上手だ。夏乃の良さをちゃんと褒めて引き出してくれる。
初めは一人で練習するつもりだったから、珀との練習は少し億劫な気もしたけれど、短い時間でとても充実した練習をすることが出来た。
「珀って、教えるの上手いよね」
「そんな事はないさ。夏乃の筋がいいんだ」
珀はそう言って笑う。
ただ、
湯殿でさっと汗を流したあと、夏乃は朝約束した通り
今日一日、月人は黒犬の姿で過ごした。そのせいで、ほとんど食事をとれていない。
(月人さまは、あたしに遠慮してるのかな?)
夏乃は一度、雪夜を恐れて貝割り作業へ逃げ戻った。そんな彼女を再び侍女仕事に連れ戻したことを、月人は申し訳なく思っているのかも知れない。
(あたしが月人さまの力になりたいって、自分で決めたのに)
もちろん今でも、剣を持った相手と戦うのは怖い。祖父に習った古武術は、命のやり取りを前提にしたものではないからだ。
でも、今は月人の呪詛を解き、命を狙われる現状を何とかしたい。しょぼくれた月人の顔も、耳を垂らした黒犬の姿も見たくないのだ。
月人の部屋に行くと、長椅子の上に寝そべる黒犬と
「遅くなって申し訳ありません」
「いや、構わない。夏乃はいつも倒れるから、そなたがここに座るといい」
黒犬がぴょんと長椅子から飛び降りた。
「あはは……ご迷惑をおかけします」
どういう訳か、月人に血を提供すると夏乃は気を失ってしまう。
貧血を起こすほど血を失ったならわかるが、ほんのちょっと傷口を舐められただけでも気を失ってしまう。
気を失っている時間はだんだんと短くなってはいるのだが、どうしても意識を失ってしまうのだ。
相変わらず不機嫌顔の冬馬の横を通り過ぎ、夏乃は長椅子に腰かけた。すぐ目の前の床には黒犬が行儀よくお座りしている。
「じゃぁ、お願いします」
夏乃が左手を上げると、冬馬がその手を取り、慣れた手つきで指先に短刀を滑らせる。
「痛っ……」
思わず目をつぶった途端、温かいものが指に食らいついた。
冬馬が月人の衣をバサリと広げたのが視界の隅に見えたのを最後に、夏乃の意識は遠のいていった。
見たことのない母の祖国からもたらされる赤い酒。
あの美酒よりも芳醇な香りと、それ以上に甘美な味。夏乃の血は、月人にかけられた呪詛を解いてくれるだけでなく、月人を甘く甘く酔わせる媚薬のようだった。
ともすれば、彼女の指先につけられた小さな傷口から、吸えるだけ血を吸い尽くしてしまいそうになる。
そんな誘惑を、月人は必死に振り払った。
呪われた黒犬の姿から人の姿に戻るとすぐ、肩に衣がかけられた。衣を持って待機していた冬馬が、慣れた手つきで着付けてくれる。
「冬馬、すまぬな」
「いえ。控えの間に下がっておりますので、何かありましたらお呼びください」
一礼して下がってゆく冬馬の背中を見送ってから、月人は長椅子に倒れている夏乃を腕に抱き上げた。そのまま長椅子に腰を下ろし、己の膝の上に夏乃を座らせる。
ぐったりとした背を支えて胸に抱き寄せ、夏乃の髪にそっと口づけを落す。
「夏乃……そなたは、いつか私を置いて行ってしまうのか?」
呟きを漏らし、彼女の頭に頬を寄せる。
サラサラと滑り落ちた銀糸が、彼女の黒髪の周りをベールのように覆ってゆく。
こんな風に囲い込んで、閉じ込めてしまえたらどんなに良いだろう。異界にある彼女の国へ帰る方法など見つからなければいいのに。
「どこにも行かないでくれ。ずっと私の側にいて欲しい」
広げた手のひらで彼女の頭を支え、そっと唇をあわせる。
温かく柔らかな感触を味わっていると、ビクッと夏乃の身体が揺れた。
「夏乃?」
「ん……」
睫毛が揺れて、ぎゅっと眉間にしわが寄る。
その目元が緩むと、夏乃はうっすらと目を開けた。
「あ、月人さ……ま?」
初めはぼんやりとしていた夏乃の目が、みるみる見開かれてゆく。
自分が月人の腕の中にいることに気づいた途端、彼女はジタバタと暴れだした。
しかし、月人は腕を緩めるどころか、力を込めて夏乃を抱きしめた。
「ちょっと月人さま、放してください! まさかとは思いますけど、あたしが気を失ってる時に不埒な真似をしてないですよね?」
「不埒な真似などしていない。口づけをしだだけだ」
「はぁ? それ、相手の承諾なしにしたらダメなやつでしょ!」
夏乃は目を怒らせて月人を見上げる。
「不埒ではない。私はそなたのことが好きだ。何処へも行かず、ずっと私の傍にいて欲しいと思っている。私のこの想いは不埒か?」
月人が思いを込めて囁けば、夏乃は顔を真っ赤にしたが、
「それでもっ、承諾なしに触れるのはダメですっ!」と言ってまた暴れ出した。
「私はずっと、何もかも諦めて生きてきた。親に愛されぬことも、人々から忌み嫌われることも、命を狙われる事さえ仕方のないことだと思って生きてきた。
呪詛を受けたのちは、いつ死んでも良いとすら思っていた。
それを…………そなたが変えた。諦めなくて良いのだと、そなたが希望を与えたのだ。だから私はもう諦めない。どこへも行かないでくれ」
月人は思いの丈を掃き出して、夏乃を腕の中に閉じ込めた。
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