第21話 黒犬と露天風呂


 温泉の手前で黒犬の待ち伏せを受けた夏乃なつのは、努めて冷静に言葉を発した。


「何のお話でしょうか?」

「ここでは寒かろう」


 クルリと踵を返し、黒犬はすたすたと歩き出した。

 仕方なくついて行くと、黒犬はなぜか岩の浴槽の縁に腰かけた。


「足だけでも湯につけるといい」

 月人に言われるまま、夏乃も岩に腰かけて足を温泉につける。


(なるほど。確かにこれなら寒くない)


 夏乃がホッと表情を和らげると、月人は唐突に話しはじめた。


雪夜ゆきやは、王太后に命じられて来たようだ」

「えっ……」


 いきなり始まった殺伐とした話に、夏乃は息を呑んだ。

 確かに、それは夏乃がハクに投げかけた問いの答えではあったけれど、まさか、わざわざ月人本人が答えてくれるとは思ってもみなかった。


「もともと義母上には嫌われていた。幾度か刺客を送られたことがある。この呪いも、おそらく義母上の仕業だろう」

「ええっ?」


 以前聞いた時は答えてくれなかった事を、月人はあっさりと口にした。


「兄にも嫌われているが、兄はもっと単純だ。わたしの嫌がることを仕掛けて来るくらいで、今のところ殺意はない。だから、王宮に行くこと自体はそれほど危険ではない。そなたが一緒に来てくれると嬉しい」


「王太后さまは、王宮にはいないんですか?」

「義母上は、東の離宮にいる」

「でも、雪夜が失敗したことを知ったら、また刺客を送ってくるんじゃないですか?」


 命を狙われたことなど何とも思っていないような月人の態度に、夏乃は苛立ちを隠せない。


「わざわざここに刺客を送り込んで来たんですよ! 王宮はもっと危険じゃないですか! てゆーか、王太后さまはどの程度本気なんですか? あたし、ずっと疑問だったんです。全員を眠らせるなんて面倒なことするより、お酒に毒を混ぜてたら、月人さまの暗殺は成功してましたよね。まぁ、他の人もみんな巻き添えで死んじゃいますけど」


「そうだな。まさにそれが答えだ」

 黒犬姿の月人は、微かに笑ったようだった。


「大陸の商人は多いが、遠く西方から来る商人は今の所あの船だけだ。義母上は、私や母のことは心底嫌っているが、西の宝石や珍味を愛している。あの人は最初から、商人たちを巻き込むつもりはなかったのだ。使用人たちも同様だろう」


「だから、眠らせた?」

「そうだ。納得したか? ならば、ともに都へ行ってくれるか?」


 月明かりに照らされた黒犬の瞳が紫色に輝いている。月人に真っすぐな視線を向けられると断りにくい。

 夏乃はサッと視線をそらした。


「命を狙われてるのに、どうして王宮に行くんですか? 王様からも疎まれてるなら、断ればいいじゃないですか?」


「……確かに、そうかも知れぬ。私がこの島から出ずに、ひっそりと暮らしていれば、そのうち義母上も私の事など忘れてくれるのかも知れない」


 先ほどまでとは違い、月人の声はとても沈んでいた。

 まるで自分の存在すら否定するような空虚な声に、思わず夏乃が視線を戻すと、温泉の湯気が白くたゆたう中に、黒犬がしょんぼりとうな垂れていた。


 同情してはダメだ。そう思うのに、夏乃の心は揺れていた。

 月人がここに居れば、夏乃が血を提供しなくても何とか暮らしてゆける。命の危険だって王宮よりは少ないはずだ。

 自分の考えは間違っていないと思うのに、どういう訳か夏乃の心は揺れ続けた。


(ああ────違う、そうじゃないんだ。このまま何もしなかったら、月人さまは黒犬のまま生きることになる。下手したら死ぬまで呪いは解けないかも知れない。

 月人さまの呪いを解くのに協力するって自分で決めたくせに、あたし、結局逃げてるし……やっぱ、それじゃダメなんだ!)


 俯いたまま動かない黒犬に、夏乃は手を伸ばした。

 ドーベルマンに似た細長い顔に手を滑らせて、両手で黒犬の顔を包む。


「ごめんなさい。あたしが間違ってました。月人さまは、現状を打開しようとしているんですよね? なのに、あたしったら……雪夜なんかに怯えて、解呪に協力する約束まで破っちゃって。でも、もう、腹をくくりました! 解呪にも協力するし、王宮にも一緒に行きますから」


「夏乃っ!」


 感極まって、黒犬が躍動した。


「わぁっ!」


 夏乃は咄嗟に避けようとしたが遅かった。

 大型犬に飛びつかれてバランスを崩した夏乃は、背中から岩風呂の中に落下した。

 しかも、バシャンとお湯に落ちたとき、左腕の肘をガリッと岩で擦り剥いてしまう最悪なオマケ付き。


「あっ────」

 と思った時には、何かが肘にかぶりついていた。


(やばいやばい! 月人さまが人に戻っちゃう!)


 夏乃は着物を着ているが、温泉の中で全裸の月人と混浴など、想像しただけで気を失いそうだ。


(や、それより沈むっ!)


 夏乃は岩風呂の中で何とか体勢を立て直そうと足掻いたが、左腕をつかまれているせいで頭が起こせない。

 成す術もなく、夏乃はブクブクとお湯の中に沈んで行ったが、次の瞬間には力強い腕に湯の中から引き揚げられた。


「夏乃……すまぬ」


 目を開けた途端、見えたのは青白い月人の顔。

 月光に照らされた銀の髪がキラキラと輝いている。

 紫色の瞳は暗くてよく見えないけれど、至近距離に顔を寄せられただけで体が動かなくなってしまう。


「つきひ────」


 何か喋らなくてはと思ったのに、月人の名を最後まで呼ぶことは出来なかった。

 食らいつくような早業で、月人の唇が夏乃の口を塞いだからだ。


(ひっ……)


 夏乃はカチコチに体を強張らせた。

 自分が着物のまま温泉に浸かっている事も、月人が一糸まとわぬ姿であることも、すべて消し飛んで真っ白になった。

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