第11話 指先をほんのちょっと


「────夏乃なつの、よく言ってくれた! 初めはなんて怪しい娘かと思ったが、今となっては、天が月人つきひとさまの為におまえを遣わしてくれたとしか思えない!」


 月人の部屋に通されるなり、冬馬トーマの口からお褒めの言葉が飛び出した。


「あはは……」


 曖昧な笑みを返しながら、夏乃は月人の姿を探した。

 黒犬の月人は〝〈銀の君〉人形〟が座る長椅子の端にちょこんと座っている。どうやらあの場所が定位置らしい。


「……本当に、良いのか?」


 目が合うなり、黒犬がそう問いかけてきた。

 心なしか耳は垂れ、紫色の目にも覇気がないように見える。

 今にも「クゥーン」と悲しげな声で鳴きだしそうだ。


「大丈夫です。もちろん、一度に大量の血を提供するのは無理ですよ。それに、提供した分、栄養のあるものを食べたいです。それさえちゃんと守って頂ければ、私は構いません」


「食事なら、私に用意されたものを食べれば良い」


 長椅子に寝そべったまま、黒犬がそう言う。


「それはありがたいですが……元の姿に戻ったら、月人さまこそお食事をされた方が良いのではないですか?」


 冬馬もハクも、食事を取れない月人の身体を心配していた。

 ちらりと冬馬の方を見ると、彼は首が痛くなりそうなほど何度も何度も大きくうなずいていた。


「……そうか」


 心配されて照れているのか、黒犬は挙動不審に頭を揺らしている。


「それなら、夏乃のために何か滋養のあるものを手配してやってくれ。私が食すのだと言えば、拒まれることもなかろう」

「かしこまりました」


 冬馬が嬉しそうに破顔した。

 彼の笑顔を見るのは初めてだ。


(へぇ、冬馬さまも笑えるんだ)


 フッと込み上げてきた笑いをかみ殺して冬馬の顔を見ていると、鋭い視線を感じた。正面にいる黒犬が、じっと夏乃を見つめている。


「夏乃。そなたには感謝しかない。間もなく訪れる異国からの客人に、どう対応すれば良いのかと頭を悩ませていたのだ。

 客人とは旧知の間柄。出来れば会って話がしたいと思っていたが、この姿では無理なことだと諦めていたのだ」


 愁いを帯びた紫色の瞳を見て、夏乃はハッと息を呑んだ。


(……そうだった)


 夏乃が臨時の侍女として貸し出されたのは、近々やって来る客人に対応する為だ。

 働き始める前から、夏乃は月人が呪詛されていることを知っていたのに、彼が客人に会うのは無理だろうとしか思わなかった。

 月人の気持ちを考えたことが無かったのだ。頭にあったのは、なるべく早くお金を貯めて家に帰る方法を探すことだけ──。


(あたし、自分の事しか考えてなかった……最低だ)


 夏乃は眉間に皺を寄せたまま黒犬を見つめた。

 どんな経緯があったのかは知らないが、ある日突然、自分が黒犬になってしまったらどんなに不安だろう。

 突然異世界に放り込まれて帰り方も分からない夏乃も不安だが、今のところ危険な目には合ってないし、衣食住にも困っていない。


(あたしはまだマシなんだ)


 ならば、目の前で耳を垂れている黒犬のために、出来ることは何でもしてあげよう。訪ねてくる客人が知り合いなら、人の姿で会いたいに決まってる。

 夏乃の血がどれくらい必要なのかはわからないが、せめて一晩、宴の間だけでも心置きなく過ごして欲しい。


「今すぐやりますか?」


 夏乃は左手を上げると、手のひらを珀の方へずいっと伸ばした。


「自分で切る勇気はないから、珀が切って。指先をほんのちょっとだよ」

「ええっ、俺?」


 珀は若干引いているが、他に適任者はいない。


「大丈夫! 指なら包丁で何度も切ってるから、出血量とかもなんとなくわかるし、治し方も慣れてるから!」


 夏乃はグイグイと珀に詰め寄った。


「あっ、ちゃんと火で焙った刃物で切ってよ。それから冬馬さまは、月人さまの衣を用意しておいてくださいね!」

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