第9話 ハプニング


 冬馬トーマが出て行って間もなく、黒犬の月人つきひとハクが湯殿から戻って来た。


「お帰りなさいませ」

「…………」


 湯殿で疲れたのか、黒犬は返事をする気もないらしい。無言で部屋を横切り、長椅子に飛び乗るなりうずくまってしまった。


 夏乃なつのは、長椅子の端にチラリと目を向けた。

 黒犬の隣には、銀糸の髪を背に流した月人人形が鎮座している。

 初めて見た時は、余りの精巧さにまじまじと眺めてしまったほどだが、これを作ったのは人形師ではなく、月人の母もお世話になったという高齢の医術師だという。

 近くで見ても生きている人間にしか見えないし、お顔がモデル顔負けの美形なのだ。


(こんな人形を作れるなんて、医術師じゃなくて魔術師じゃないの?)


 などど考えてしまうが、ここは何があってもおかしくない異世界なのだ。


「あの、慣れてないので痛かったら言ってくださいね!」


 視線を黒犬に戻し、夏乃は長椅子の前に膝をついた。

 ふと、脇に立つ珀に目をやると、彼は心配そうな顔で夏乃を見ている。


(変なこと言ったかな? でも、美容室の人はこんな感じで言うよね)


 ブラシで髪を梳くのとは全く違うことはわかるが、あいにく夏乃は犬猫を飼ったことがない。どのくらいの強さでブラッシングすれば良いのか、実践でつかむ他ない。


「では、いきますよ」


 夏乃は、ブラシを持った手を黒犬の方へ伸ばした。

 最初は手加減して、黒い背中にそっとブラシを滑らせた。やや湿り気のある毛がつやつやと光る。

 特に苦情は出なかったので、夏乃はせっせとブラシで毛並みを整えた。


「夏乃……そなた、昼に誰かと庭で騒いでいただろう?」


 唐突に、黒犬の月人が口を開いた。


「えっ、お庭でですか? 井戸で侍女仲間と話してたやつかな。ここまで聞こえました?」


「いや。会話の内容までは聞こえなかった。何を話していたんだ?」


「ええとですね。あたしが〈銀の君〉の侍女になったのが気に喰わない人がいて、ちょっとした意地悪をして来るんですよ。足を引っかけられたり、湯殿の湯が抜かれてたり、ほんとに迷惑なんですよね。〈銀の君〉の侍女になりたいなら、正直にそう言えばいいのに」


 聞かれたのをいいことに、夏乃は愚痴をこぼした。


「それは、そなたの思い違いだろう」

「そうですか? でもそれ以外に、あたしに意地悪する理由がないと思いますよ」


 夏乃は喋りながらも黒犬の毛並みを整えてゆく。体の方は大方済んだので、次は毛足の長い尻尾の毛を梳こうと、手を伸ばした。

 ブラッシング作業に慣れてきて、少し油断していたのかもしれない。

 夏乃が尻尾の毛にブラシを滑らせた途端、黒犬はビクンと体を震わせ、長椅子を蹴って飛び上がった。

 その瞬間、彼の後ろ足がガリッと夏乃の左手首を引っ掻いた。


「痛っ!」


 尻尾もブラシも放り出して手首を見ると、縦に五センチほどの赤い引っかき傷がついていたが、幸い深い傷ではない。傷の表面に小さな血の雫が珠のように連なっているくらいだ。

 ただ、見ているうちに血の雫が集まって、一筋の血が流れ出す。


 グルルルルルル


 低い唸り声に、夏乃はハッと顔を上げた。

 長椅子の上に立ち上がった黒犬が、ものすごい形相でこちらを見ている。

 紫色の瞳は危険な光を放っていて────。


(あっ!)

 と、思った時には大きな黒犬に飛びかかられ、夏乃は床に押し倒されていた。


 大きな黒犬がクワッと口を開き、ぞろりと並んだ鋭い牙が目の前に迫ってくれば、身の危険を感じずにはいられない。


(噛みつかれるっ!)


 大型犬に伸し掛かられた状態では身動きも出来ず、夏乃は顔の前で両腕を交差させるのが精一杯だった。

 咄嗟に目を閉じ、襲い来るであろう痛みに備えたのだが────。


(えっ……)


 肉を裂く痛みや衝撃の代わりに、湿り気を帯びた温かなものが手首に纏わりついてきた。


 恐る恐る、夏乃は目を開いた。


 最初に目に入ったのは、顔の周りを覆う銀糸のカーテンだった。

 交差した自分の両手の向こうに見えたのは、白磁のような額と閉じた瞼、スッと通った鼻梁。

 驚いたことに、夏乃に伸し掛かっているのは黒犬ではなく人間だった。


 交差した両腕で彼の口元は見えないが、ピチャピチャと何かを舐める音と、手首に感じる湿った温かさで、何が起きているかは予想ができた。

 何がどうなったのかはわからないが、おそらく呪詛が解けたのだろう。


(……そ、それより)


 喫緊の問題は、銀糸の隙間から見える彼の白い肩と腕だ。

 こういったシチュエーションは夏乃だって知っている。漫画によくある────変身したらすっぽんぽんてやつだ。

 見てはいけないような気がして、夏乃は慌てて目をつぶった。


「……はっ、珀っ! ふっ、ふくふくっ!」


 意味不明な叫びを上げた瞬間、神経が焼き切れたかのように夏乃は意識を失った。


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