第8話 夕餉の膳


〈銀の君〉は魔物だという例の噂のせいか、お屋敷は思ったよりも使用人の数が少なかった。


〈銀の君〉の近くにいるのは、冬馬トーマをはじめとする異国人風の人たちだけで、黒目黒髪の日本人に似ている人たちは、お屋敷の維持に必要なほんの一握りの使用人と、屋敷を守る兵士しかいない。


「これじゃあ、貝割り作業の仕事場の方がよっぽど賑やかだったなぁ」


 雑巾がけで汚れた水を庭に捨てて、新しい水をもらおうと井戸へ行くと、そこで先輩侍女の睡蓮すいれんに出くわしてしまった。

 夏乃なつのの姿を認めた睡蓮は、整った顔にあからさまな喜色を浮かべた。


「あらぁ、聞いたわよ。あなた、湯殿を使わないで井戸水で行水ぎょうずいしてるんですって? 寒いのに、さすが奴隷の人たちは体が丈夫ねぇ」


 にっこり笑う睡蓮を見て、夏乃は自分が行水をする羽目になった張本人がわかったような気がした。


「湯殿に行ったら湯を抜かれた後だったんだ。仕方なく行水したけど、さすがに水は冷たいから賄いでお湯をもらったよ」

「あら、それは災難だったわね。誰がお湯を抜いたりしたのかしら? 風邪をひかないようにしてね」


 睡蓮はクスッと笑うと、桶を抱えて行ってしまった。


(絶対おまえだろっ!)


 喉元まで出かかった言葉を何とか飲み込んで、夏乃は睡蓮の後ろ姿を見送った。



 〇     〇



 月人つきひとの夕餉の膳を下げに御殿へ上がった夏乃は、テーブルの上に置かれた夕餉を見て眉をひそめた。

〈銀の君〉のために用意された膳は、それはそれは贅を尽くしたものだった。蒸した魚に野菜の煮物。青菜の汁物に、まじりっ気のない白いご飯。そして────。


(こっ、これはっ……もしかしなくても、肉っっ!)


 月人の献立には、この島、いやこの世界に来てから一度もお目にかかったことのないお肉が登場していた。


(何だろう、豚の角煮的なやつかな?)


 じゅるりと唾が湧いてくる。


 お屋敷の侍女の食事は、貝割り作業の人たちが食べる物よりもかなりマシだったが、日本の高校生から見れば明らかにたんぱく質が足りていない。

 こんな豪勢な、しかも全く手を付けた様子のない美しい膳を見てしまったら、唾が湧いても仕方がないというものだ。

 夏乃は、控えの間にいた冬馬に恐る恐る声をかけてみた。


「あの、これ、ほとんど食べてないみたいですけど、本当に下げちゃっていいんですか?」


 夏乃の声に振り向いた冬馬は、愁いを帯びた表情を浮かべてうなずいた。


「ああ、下げてくれ。月人さまは……あのお姿になってから、ほとんど食事をされないのだ。食べられない、と言った方がいいのだろうな。口にされるのは酒と……だけだ。このままではいつかお倒れになってしまうだろう」


「え、酒と何ですか?」


 夏乃が聞き返すと、冬馬は冷たい三白眼をチラリと夏乃に向けただけで答えてはくれなかった。


「普段は珀が食べているが、食べたいのなら食べても良いぞ。その代わり、ここで食べて行け。くれぐれも〈銀の君〉は食事を取らない、などという話が広まらないようにするのだぞ」


「いいんですか? では、遠慮なく頂きます!」


 月人の席に着いて両手を合わせ、夏乃は箸を手に取った。汁物で喉を湿らせてから、肉に箸を伸ばす。


「んまいっ! 美味いです冬馬さま!」

「おまえ、もう少し上品に食べられないのか?」


 モグモグと食べ物を頬張る夏乃に冬馬は呆れた目を向けたが、いつものように目を三角にして怒ったりはしなかった。

 夏乃は幸せいっぱいで夕餉の膳を完食した。


「ごちそうさまでした! 他に仕事がなければ、このお膳を下げつつ部屋に戻りますけど、良いですか?」


「ああ……いや、少し待て。もうすぐ月人さまが湯殿から戻られる。わたしの代わりに、これで毛を梳いて差し上げてくれ。いいか、丁寧にだぞ。おまえに任せるのは不安だが、私は他に用がある」


 冬馬が夏乃に手渡して来たのは、短い毛がびっしりと植えられたブラシだった。何の毛かわからないが、柔らかくて良いブラシだ。


「はい、丁寧にですね。大丈夫です。美味しいご飯を頂いたので、きっちり仕事はこなします!」

「……いささか不安だが、致し方ない。頼んだぞ」

「はい!」


 冬馬は不安そうに振り返りながら、月人の部屋から出て行った。


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