第7話 長崎屋のミラクル焼きそば
高校生の僕らは、日が暮れるまでグラウンドを走り回っていた。そしていつも腹を空かせていた。
三時間目の授業が終わると弁当を平らげた。昼食時には食堂でラーメンかカレーライスをたのみ、帰りのバスを待つ間にはバス停のすぐ前にあった猫塚商店でRCコーラと菓子パンを買った。親元を離れアパート暮らしの僕の小遣いはそのほとんどが胃袋の中に消えた。
土曜日の午後、雨で練習が流れたりすると、仲間を誘っていくところは決まって長崎屋の地下だった。金のない僕らだったが、安く満腹感を得られるところは何カ所かあった。そこはすべて部活やクラスの仲間から教えられた所だった。田舎から出てきて、学校と競技場以外は行くことのない僕にはそんなところを探せるはずもない。授業以上に盛り上がる休み時間の楽しい話題は、新しく見つけたそんな場所の情報ばかりだった。食べ物ばかりでなく、遊べるところも教えてくれるのだが、年中グランドを駆け回るばかりの僕らには遊びに繰り出す時間はなかった。もちろんそんな金もなかったのだ。もう一つの楽しい話は、他校のかわいい女の子情報だったが、そっちの方はもっと可能性がなかった。
というわけで、胃袋の寂しさと精神的な飢餓状態を少しでも静めてくれたのが「長崎屋のミラクル焼きそば」だった。
当時の札幌を代表する建物であった丸井今井デパート(丸井さんと僕たちは呼んでいた)の道路を挟んだ南側の斜向かいに長崎屋デパートがあった。その地下が小さな食堂街になっていて、屋台のようないくつかの店舗が入っていた。目的の店は立ち食いそばの屋台のようで、カウンター(カウンターというよりも、ベンチのようなものだったかも知れない)に四人ほどしか座れない。目隠しのような丈の短い赤色の暖簾に白く「焼きそば」の文字が入っていたように記憶している。お祭りの屋台とさほど変わらない造りだった。
正式な店の名前はなんと言ったのだろうか。それは全く記憶にない。当時から知らないでいたのかもしれない。
「長崎屋いぐべ」
「おおいいな、今日はジャンボだな」
そんな会話で学校を出ていたのだ。
その味自体は覚えていないのだが、タマネギやキャベツの塊がごろんと入っていて、ばりばりと音を立ててかぶりつく代物だった。何よりも安いこと、大盛りであること、挑戦できること、それが僕らの楽しみだった。
全国的に話題になり始めていた札幌ラーメンが三〇〇円くらいの時代だった。ここの焼きそばは普通盛が一〇〇円、大盛りが一三〇円位だったはずだ。そして、その上にジャンボとミラクルという特大盛りが用意されていた。僕たちの目当てはジャンボ焼きそばだった。普通盛だと、食べるそばからかえって空腹感を増長させるし、大盛りでも腹六分目に過ぎなかった。楕円形のステンレス皿に山を作って運ばれてくるジャンボ焼きそばは、僕たちの空腹感をちょうど良く静めてくれた。味は……、やはり思い出せない。
年配の客はほとんどいなかった。時には遠目から眺めているギャラリーがいることもあった。学生たちが皿からこぼれるばかりに盛られた焼きそばと格闘している様子を楽しんでいるようにも感じられた。もしかすると自分の学生時代の姿にダブらせていた人も多かったのかもしれない。そして、ミラクルへの挑戦者が出ると拍手が起こったりする。
ミラクル焼きそばは麺を四玉使用しているという特大盛りで三五〇円だったと思う。時間制限があったが食べ尽くすとタダになった。一人だけ完食した級友がいたが僕には無理だった。量としては食べられても時間制限が問題だった。カウンターの向かいの壁には完食した人たちの名前札がかけてあり、見知った名前が二人いた。僕自身は一度も挑戦したことはないのだが、時間制限にせっつかれ、味もわからず水で流し込むのがもったいないと感じていた。失敗したところで三五〇円は何でもないのだが、結局ジャンボ止まりで満足して帰ることになるのだった。
田舎育ちの僕にとってはそこに行くことが大切な時間だった。札幌という都会の一員として、札幌の高校生として生活し、同時代の「仲間」と同じ時間を共有し、同じ楽しみに浸っているという事実が一番の満足できることだった。三年間の高校生活で何度通ったのだろうか。焼きそばという料理としては、ここよりもはるかに美味しい店を何軒も知っている。半生のタマネギが苦く、塩や胡椒の塊に顔をしかめることもあった。だけども、雨の土曜の午後は長崎屋の地下に向かっていた。
あの頃、狭い長椅子の隣に別の高校の制服姿が同席したことも何度かあった。学ランの下の真っ赤なシャツをこれ見よがしにはみ出させていたやつもいたし、制服にサングラスなんていうヤツが胸ポケットにショップ(ショートホープ)を突っこんで隣に座ったこともあった。年中真っ黒に日焼けしていてお世辞にも上品とは言えなかった僕らも含めて、むしろあんまり……、の高校生ばかりが集まっていたようにも思える。だが、この場所でケンカやもめ事になることは全くなかった。ここの地下でカツアゲにあったという話も聞かない。
大人たちが屋台の狭い空間を一つの安らぎの場としていたのと同じように、この長椅子に座った高校生たちは、みんながタマネギの塊にかぶりつきながら笑っていた。
「ウメーナ」
「オメー、ミラクル挑戦しねーのか」
「いやー、ムリだって」
「あすこのさ、右から三番目のやつよ、同級生だ。柔道部でよ……」
そう言った襟元を大きく開けたブレザー姿のあいつ……、その口の周りは油で光っていた。
あいつはいったいどこの誰だったのだろう。きっと、互いに後からそう感じたことも忘れてしまっているだろう。きっとあの時間だけが互いの人生の中でたった一度きりの接点だったのだろう。そして、もう二度とすれ違うことすらないのだろう。もっとも、今、目の前にいたところで、どちらもあの時隣にいたヤツだと気づくこともないのだ。だが、間違いなく、僕とあいつらとは同時代にこの札幌に生きていた。そして、あの頃の同じ空気を吸い、半生のタマネギをかじり、一〇〇円玉を二個置いて満足した顔で階段を上っていったのだ。そのことだけは、間違いなく僕らの人生の中に共通してあったことなのだ。
そう、「幸せ」ってあんなことだったのかもしれない。
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