第5話   チワーとオイス~下級生は挨拶が全て~


 中学校と高校との大きな違いの一つは挨拶だった。

ここでは「こんにちは」が『チワー』、「おはようございます」が『オイス』と短縮されているヤツだった。

田舎の中学校だと先輩とは言ってもみんな近所の仲間だったので、その辺は何となく必要に応じての挨拶だったが、高校ではそうはいかなかった。まして全く顔見知りのいない自分にとっては、この挨拶しだいでは憎まれ役にもなりそうであった。


 テニスコートの周りを囲うようにして立つプレハブの部室までは全力で走って行き来する。その途中であっても先輩らしき人を見つけると急停止しては「チワー」「オイス」と日に何遍でも繰り返すことになる。たとえ意図的でなくとも忘れようものなら、自分の部の先輩に伝わり「強い指導」となる。スポーツは結果が全ての判断材料になるものだが、こと学校生活となると、スポーツは年の差が全てなのだった。


 テニス部の3年生Iさんはちょっと困った先輩だった。同級生のテニス部員であるヤマトは部室に行くのをいつも嫌がっていた。Iさんと会いたくないというのだ。

「ヤマトー、ちょっとよー、焼きそばパン食いたいんだよねー。買ってきてくれないかなー」

入学してまだ間もないころ、もうヤマトはIさんのパシリにされてしまった。テニス部は一年生が4人入部したのだが、一番気のいいヤマトが彼の標的になってしまったらしい。ヤマトは中学生の時にテニスで北海道大会ベスト8に入った有望選手だった。本来ならテニスの有力校に推薦入学していい能力なのだったが、この学校のOBである父親の勧めであえて入学してきていた。


 僕はある日、授業が終わって、玄関から部室まで急いでいる時、玄関前にたむろしている大勢の生徒の中にIさんがいたのに気づかないまま走り出してしまったらしい。部室に入って着替えをしているとIさんがやって来た。

「ネーネー、陸上部ってサーア―、いつから挨拶しなくてよくなったのかなー」

部室の中には二年生が二人と一年生の僕とM君だけがいた。

「なんかさーあー、野球部の一年生とかならサー、元気いっぱい挨拶してかわいいのにねー」

二年生の先輩の一人が言った。

「何のことですか」

「ハー、何のことかってー、クニちゃんも二年生になると、結構いい口きくようになるんだねー。去年とは違うんだなー」

そこに、三年生のKさんがやって来た。そして、Iさんが部屋の中にいることに明らかに嫌な顔をして見せた。

「なんかあった?」

Iさんは、K先輩が苦手らしい。

「いやね、カトちゃんさ、陸上部のね、この子さ……」

Iさんは僕のことを指さした。それで初めて自分が対象だということに気づいた。

「……この子がさ、挨拶もしないでシカとして行ってくれたからね、ちょっと教えてやろうと思ってさ」

「おまえさ、それってさっきの玄関のことでねえのか?」

「……なに、知ってた?」

「おまえよ、あんだけ混んでる玄関でよ、お前のことなんかわかんなくたってよ、それはお前、仕方ねえべや」

「いやいや、無視してったんだって」

「おまえだって誰かと話して後ろ向いてたべや。1年生の靴箱ずっと端にあんだからよ、こいつはお前よりずっと前にいたべや。気が付かなくてもしょうがないんでねえの」

「えー、なんでカトちゃんそんなこと知ってんのー」

「おまえ、俺もあすこにいたの知らないで言ってんだべさ」

Iさんは、なんか口の中で小さくつぶやいた後に部屋を出ていった。二年生の先輩たちがほっとした表情になった。


「あいつ、ほんとに変わらんやつだよな。お前らも去年ずいぶん言われたべ」

二年生の先輩たちが無言でうなずいた。

「まあ、しょうがないからちょっとだけ意識してやれな」

Iさんは、自分よりも強い相手にからっきし弱かった。というよりも、三年生としてはとても貧弱な体をしていたし、テニスの成績は全くないに等しかったようだ。大会では「口だけ出てんじゃねえのか」と言われていた。ペアを組む相手からいつも嫌がられ、相棒が決められなかったこともあるという。ヤマトの言葉によると、まったくの素人とやっても勝てないレベルだという。

「おまえとやっても勝てねえよ」

とヤマトは言い切った。


スポーツをやっている者の中では年齢がすべてだ。そんな声を聞くことが多かった。スポーツの優劣は記録や勝敗で決まるはずだった。でも、高校生の間ではそうはいかないのだ。

「チワー」「オイス」と私はその後も叫び続け、睨みつけてくるようになったIさんにも、「チワー」と投げつけるような挨拶を繰り返した。別にそれが嫌ではなかった。当たり前のことと思えていた。ただ、決してそれは尊敬の印でもなんでもなかった。


 ヤマトはIさんの卒業を待たずにテニス部をやめ、札幌中心部にある大手のテニスクラブに所属して活躍することになった。そこではごく普通に日常的な挨拶をするだけで強制はないという。高校生活で挨拶が大切なのを特に否定したくはない。私や同級生の野球部員であるトクさんなどは、むしろ挨拶が好きなほうだった。でも、挨拶されるほうの立場になった時、自分が何か偉くなったような勘違いをしてしまうことが問題だと感じていた。そう言いながらも、自分たちも先輩と呼ばれる年になってしまうと、挨拶されるかどうかが結構気になってしまうものだった。


あれから数十年が過ぎても、「チワー」と「オイス」という言葉が今でも時々口に出てしまうことがある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る