第7話 地獄の扉は、合言葉。

 時計を見ると、まだ、午の刻でした。予定時間よりも、ずっと早く帰れます。

社長室を出ると、事務所のドアが開いて、首だけがニュ~ッと出てきました。

「なぎさちゃん、もう、終わりなの?」

 ろくろ首さんが出てきました。すごく美人なのに、首が長いのは、やっぱり妖怪なのです。

「ハイ、早く終わったので」

「そう。それじゃ、帰り道を教えてあげるからね」

 そう言って、体が後から事務所から出てきました。妖怪は、どんな体の仕組みになっているのだろう?

首が元通りに短くなって体に戻ると、私は、ろくろ首さんの後について歩きます。

「ここよ」

「ここって、秘書室で、私の部屋ですよ」

「そうよ」

「そうよって・・・」

 首を傾げている私をよそに、秘書室のドアを開けて中に入りました。

秘書室は、社長室の隣にあります。でも、実は、まだ一度も入ったことがありません。

「なにしてるの。自分の部屋なのよ」

 そう言われて、私は、初めて自分の部屋である秘書室に入りました。

中に入ると、何もなくて、机と椅子があるだけで、机の上には、電話が一つあるだけです。これが秘書室なのか? 殺風景な部屋だなというのが、私の感想でした。

 すると、ろくろ首さんが、白い壁に向かって言いました。

「なまむぎ、なまごめ、なまたまご、なまむぎ、なまごめ、なまたまご、なまむぎ、なまごめ、なまたまご、」

 すると、何もない壁がバカッと左右に開いたのです。

「なにしてんですか?」

「決まってるでしょ。早口言葉よ」

「それは、わかりますよ」

「要するに、合言葉ね。帰るときは、今みたいに言うと、ドアが開くから」

 そう言うと、開いたドアの中に入っていきます。

私も後について中に入って、ビックリです。そこは、なんと、寮の洗面所だったのです。

「ウソでしょ。ここって、寮じゃないですか」

「そうよ」

「そうよって・・・ 寮と秘書室って繋がってたんですか?」

「知らなかったの?」

 それを聞いて、ガクッと力が抜けました。こんなに近いとは・・・ それじゃ、今日の迷子になったのは何だったのよ。

「大王様も、一番大事なことを教えてあげないなんて、ホントにそそっかしいわよね」

 これなら、遅刻することはなくなる。通勤時間は、ほぼ0秒だ。まさか、寮と会社が繋がっているなんて通勤が楽過ぎて、これほどうれしいことはない。

 そう思っていると、ドアが閉まりました。

「あの、ドアを開けるときは、どうするんですか?」

「親亀の背中に子亀を乗せて、子亀の背中に孫亀乗せて、孫亀の背中に曾孫亀乗せて、親亀コケタら、みなコケた」

 今度は、急に歌い始めた。

「わかった。この歌知ってる?」

「えっと、田舎のおじいちゃんが歌ってたの知ってます」

 確か、これって、私が生まれる前のお笑い芸人の一発芸というか、一世を風靡した早口言葉というかコントのようだったと、田舎のおじいちゃんから聞いてます。

「それじゃ、今の歌ッてみて。下手だと開かないからね。それと、早口言葉だから、噛んでも開かないから。ちゃんと練習しないと、いくら通勤が近いとは言っても、開かなかったら、遅刻するからね。それじゃ、またね」

 そう言って、ろくろ首は、帰って行きました。そんな私は、唖然と見送っていたのです。

「ちょっと、なぎさちゃん」

 いきなり、後ろから声をかけられました。ビックリして、振り向くと、そこには、同じ寮に住む、カオナシさんがいました。

「なぎさちゃん、靴。ここは、土足厳禁よ」

「あっ、ごめんなさい」

 慌てて自分の足元を見て、靴を脱ぎました。

「もう、しっかりしてよね」

 そう言って、カオナシさんは、洗面所で顔を洗いながら言いました。

顔がないのに、顔を洗うとは、不思議過ぎる。

 私は、靴を持って裸足のまま廊下に出て、靴を下駄箱に入れて、二階に上がりました。二階の自分の部屋に入って、やっと一息つくことができました。

 今日もいろんなことがあり過ぎました。魔界に行って、悪魔に会って、天上階に行って、神様に会って法の番人に話をしに行くことと天獄列車の運転手に決まったことで、たった一日なのに、波乱万丈です。

 そこに、ドアをノックする音が聞こえました。

「ハイ」

 私は、そう言いながらドアを開けると、狼男さんがいました。

「なぎさちゃん、ご飯だって」

「ありがとう。着替えたら、すぐに行きます」

 なぜか、エプロンをしていた狼男さんの姿が、可愛くて思わず聞いてしまいました。

「エプロン、似合いますね」

「そうか・・・ 今日は、俺が、食事当番だからさ。こう見えて、俺は、料理を作るのが好きなんだ」

 まんま二本足で立っている、毛むくじゃらの狼です。大きく開いた口から鋭い牙が見えます。

両手、両足の指には、先がとがった爪が光っています。なのに、ヒヨコの絵が描いてあるエプロンがとても似合う。

それどころか、私に似合うと言われたことが、うれしいのか恥ずかしいのか、口から真っ赤に舌を出してしきりに口元を舐めている。それに、尻尾が激しく振られている。うれしいことが見てわかる。見た目は怖いけど、可愛い狼男さんなのです。

 私は、急いで着替えて、一階の食堂に行きました。

「なぎさ、今日は、煮魚定食だよ」

 そう言って、迎えてくれたのは、千手婆さんです。見た目は不気味だけど、もう慣れました。

「ハイよ、お待ちどう様」

 そう言って、私の席まで食事を運んでくれたのは、狼男さんでした。

「まさか、これを作ったんですか?」

「そうだよ。千手婆に教わって、作ってみたんだ。その魚は、金目鯛っていうらしいな。ちゃんとなぎさちゃん用の飯だから安心して食ってくれ」

「ハイ、ありがとうございます。それじゃ、いただきます」

 私は、両手を合わせず、口だけで言って、箸を持って、まずは一口、金目鯛の煮つけを食べました。

「おいしい!」

 こんな高級な料理は、テレビでしか見たことがありません。口に入れた瞬間、ホクホクした身がほぐれ、甘辛いタレが舌の上に広がり、いくらでもご飯が食べられます。お味噌汁は、シジミでした。シジミの出汁が味噌汁に溶けて、とてもおいしく飲めます。小鉢の冷ややっこなんて、冷たくて豆腐の味がしっかり濃くて、たまりません。

「どうだい、うまいか?」

「ハイ、どれもおいしいですよ」

「よかった。なぎさちゃん、ご飯のお代わりあるよ」

「それじゃ、いただきます」

 そう言って、あっという間に空になったお茶碗を渡すと、狼男さんは嬉しそうに尻尾をブンブン振りながら厨房に消えて行きました。そして、大盛りのご飯を持ってきました。

 私が食べていると、食堂の中に寮の住人たちが戻ってきました。

「また、なぎさだけ特別なもの食ってるぞ」

「なんだか、おいしそうじゃない」

「今日は、何を食ってるんだ?」

「ちょっと、一口、くれないかな・・・」

 あっという間に、妖やバケモノたちに囲まれてしまいました。

「こらこら、お前たちは、こっちで食え。見られていると、なぎさが食べにくいだろ」

 千手婆さんが、私の周りにいる人たちに言います。

「俺たちも、なぎさちゃんみたいなのが食べたいなぁ」

「そっちのが、うまそうだもんな」

「そのウチ、食わせてやる」

 千手婆さんは、そう言うと、妖や鬼たちには、いつものように、よくわからない食事を出します。

それを、彼らは、今日もおいしそうにかぶり付いていました。

 食事が終わると、私は、そのまま温泉に向かいました。混浴だけど、もう、慣れました。

温泉に全身を浸かると、一日の疲れが抜けていくようでした。やっぱり、この温泉は最強だ。

どんなに疲れても、このお風呂に入ると、あっという間に疲れが吹っ飛ぶ感じです。

 そして、お風呂上がりの冷たいお水を飲むと、火照った体がひんやりしてきました。

そのまま、部屋に戻ってベッドに入ると、あっという間に睡魔に襲われて、深い眠りに落ちていきました。


 翌朝も、毛玉鬼さんに起こされて、気持ちがいい朝を迎えました。

千手婆さんのおいしい朝食を食べて出勤します。今日は、絶対に遅刻はしません。

だって、寮と秘書室が繋がっているからです。これなら、遅刻のしようがない。

 私は、スーツに着替えました。

「待てよ。今日も、パトロールに行くのよね。スーツは、やめよう」

 私は、一度スーツを脱いで、動きやすい服に着替えました。

この日、私が選んだのは、ジーパンにシャツを着て、ジャンパーを上から着ました。

もちろん、メイクはしません。どうせ、熱さで落ちてしまうので、化粧なんてしても無駄です。私は、スッピンで会社に行くことにしました。

 そして、昨夜遅くまで作り直した、青鬼さんの大きな縞々パンツを風呂敷に包んで背中に背負って、玄関の靴箱から、スニーカーを持って洗面所に向かいます。

そして、洗面所に入ると、一度深呼吸して、咳払いをしてから、あの歌を歌いました。

「親亀の背中に子亀を乗せて、子亀の背中に孫亀乗せて、孫亀の背中に曾孫亀乗せて、親亀コケタら、みなコケた」

 ところが、シーンとして、扉が開きません。

「どうして、開かないのよ?」

 私は、歌詞が間違ったのかと思って、もう一度、歌いました。

「親亀の背中に子亀を乗せて、子亀の背中に孫亀乗せて、孫亀の背中に曾孫亀乗せて、親亀コケタら、みなコケた」

 歌詞は、間違っていない。なのに、扉が開かない。まさか、歌が下手だから開かないのか?

そんなバカなと思って、私は、もう一度歌いました。なのに開きません。

「どうして、開かないのよ? これじゃ、今日も遅刻じゃない」

 私は、泣きそうになりました。ろくろ首さんがウソを教えたとか・・・ そんなはずはない。それじゃ、どうして開かないのよ・・・ 

私が困っていると、誰かが笑いました。

「あっはっは・・・ そんなんじゃ、その扉は開かないよ」

 そう言って、笑ったのは、洗面所にいる、洗濯鬼さんでした。

「それって、扉を開ける呪文だろ。だったら、もっと、早口で、歌わないとダメだよ」

 そう言うと、洗濯鬼さんは、いきなり手足を伸ばすと、突然踊り出しました。

「親亀の背中に子亀を乗せて、子亀の背中に孫亀乗せて、孫亀の背中に曾孫亀乗せて、親亀コケタら、みなコケた」

 と、歌って踊り出したのです。すると、ドアが、ゆっくり開いたのです。

「ほらね」

 私は、目が点になりました。まさか、こんなことで開くなんて・・・

「わかった。明日から、ちゃんと歌わないと開かないからね」

 私は、黙って頷くしかありませんでした。

「ほら、なぎさちゃん。時間だよ。早くいかないと遅れるよ」

「あっ、そうだった。洗濯鬼さん、ありがとうございました」

 私は、お礼を言って、急いで扉の中に飛び込みました。

すると、扉がゆっくり締まります。私は、ホッとして、手にしたスニーカーを履きました。

「いけない、急がなきゃ」

 私は、慌てて秘書室を出ました。そして、今度は、事務所の広報課に急ぎます。

「失礼します」

 そう言って、ドアを開けると、きょうは、ろくろ首さんではなく、同じ広報課の化け猫さんが出てきました。

「あにゃ、なぎさちゃんニャ」

「おはようございます」

「それじゃ、これが、今日の大王様のスケジュールニャ。よろしくニャ」

「ハイ、わかりました。ありがとうございました」

 化け猫さんは、見たまんま猫です。でも、ちゃんと二本足で立っている、三毛猫の女の子です。

「それじゃ、がんばってニャ」

 そう言って、長い尻尾を振りながら行ってしまいました。いつ見ても、二足歩行の猫には、違和感を感じる。

 私は、事務所を出ると、社長室をノックしました。

「ハイ、どうぞ」

「失礼します」

 私は、ドアを開けて社長室に入ります。

「社長、おはようございます」

「おはよう。今日は、ちゃんと来れた?」

「洗濯鬼さんに助けてもらいました」

「ありゃま・・・ ちゃんと歌わないと開かないよ。練習しないとね」

「ハイ・・・」

 私は、恥ずかしくなって、俯いてしまいました。

「それにしても、今日は、昨日と全然違う感じだね」

「ハ、ハイ。動きやすい服装にしました」

「そんな恰好もいいと思うよ。それに、何を背負ってるの?」

「これは、青鬼さんから頼まれたパンツです」

「なんだって?」

「えっと、その・・・ 青鬼さんから、パンツを直すように言われて、昨日の夜に直しました」

「なぎさちゃんは、何でもやるねぇ」

 そう言って、社長は、大笑いしました。なんだか、笑われるのって、微妙な感じがします。

「さすが秘書だね。優秀だよ」

「ありがとうございます」

 私は、一度、お礼を言って頭を下げます。

「あの、社長の今日のご予定なんですけど・・・」

「それね、全部キャンセルして」

「ハイ?」

 私が今日の予定を言い終わらないうちに遮られて、いきなりキャンセルするように言われました。

「イヤ、でも、あの・・・」

「いいから、いいから。向こうには悪いけど、キャンセルするって先方に伝えておいて」

「私がですか?」

「それも秘書の仕事でしょ」

 そう言われると、返事もできない。

「でも、キャンセルする理由は?」

「それは、なぎさちゃんに任せるから、適当に言っといて」

 それは、いくらなんでも無責任すぎるでしょ。社長が、予定をドタキャンて、どんな言い訳しても通用しない。

風邪を引いたとか、お腹が痛いとか、そんなの大王様がするわけがない。

しかも、今日のスケジュールは、牛魔王様との会食。営業部の視察。雪女家との会談などなど予定がびっしりなのです。私は、冷や汗というか、断る理由を考えると、胃が痛くなりそうです。

「それじゃ、頼むね。それと、いつものように、見回りはやってね。終わったら、番人に会って、天獄列車の見学だからパトロールは、サクッと終わらせるようにね」

「ハイ、わかりました。ところで、社長は、どちらに?」

「ちょっと、下界に観光してくる」

「ハァ?」

 下界ってどこよ? まさか、私がいた人間の世界のこと? だったら、私も連れて行ってほしい。

久しぶりに、普通の人間に会いたい。と思っても、そんなことは、口にはできない。

「んじゃ、そういうことだから、後は、よろしくね」

 そう言うと、私より先に、社長室を出て行ってしまいました。

「まず、何から手を付けよう・・・」

 私は、考えました。なにはともあれ、まずは、社長の予定をキャンセルすることを知らせないといけない。

私は、もう一度、広報課に向かいました。

 事務所に入ると、さっきの化け猫さんを探しました。

「あの、化け猫さん」

「なんニャ?」

「あの、さっきの社長のスケジュールのことなんですけど。キャンセルできますか?」

「ンニャ!」

 化け猫さんは、全身の毛を逆立ててビックリしました。当然でしょう。いきなり、キャンセルだから。

「ンニュ~困ったニャ。とりあえず、課長に相談するニャ」

 そう言って、立ち上がると、広報課の課長の前に行きました。私も後に続きます。

広報課の課長って、どんな人だろう?

「あの、課長。社長の秘書さんが、来てるんですけど、話を聞いて欲しいニャ」

 その時、私の目に飛び込んできたのが、広報課の課長さんでした。

「社長秘書が、何の用ですか?」

 そう言ったのは、なんと全身が左右非対称で、右が男性、左が女性の顔をしていました。

私は、驚く余り目を向いて、その場に固まってしまいました。

どういうことですか? 右が男で左が女って、どういうことなの?

スーツ姿だけど、服の下の体は、どうなってるの?

話す声も、男女が同時に話すので、声が二人分聞こえる。

「広報課長の、アシュラ伯爵ニャ」

 紹介されても、言葉が出てきません。右の男の顔は、眉が太くて目が吊り上がるくらい鋭い。

分厚い唇に髭まで生えている。なのに、左の女の顔は、眉が細くて色白で、目がクリっとして、薄い唇には、真っ赤なリップを塗っている。余りにも違い過ぎるので、目が点になりました。

「なぎさちゃん、課長さんニャ」

 何度か声をかけられて、やっと正気に戻りました。

「あの、初めまして、この度、秘書に採用された、早乙女なぎさです。よろしくお願いします」

「聞いてるよ」

 その声も、男女同時に話すので、ステレオで聞こえる。

「それで、秘書さんが何の用ですか?」

 私は、気を取り直して、社長の言伝を言いました。

すると、見る見るうちに表情が険しくなって、怒っているのがわかります。

そして、盛大に溜息をもらすと、一度頭を抱えて、顔を上げてこう言いました。

「まったく、大王様は、勝手なんだから・・・ ホントに困ったもんだ。秘書さん、あっちの総務課長にもこのことを伝えてください。キャンセルのことは、こっちで処理します」

「わかりました。ありがとうございます」

 私は、深く頭を下げてお礼を言いました。恐縮している私を、化け猫さんが総務課に連れて行きます。

「ここが、総務課ニャ。それで、あそこにいるのが、総務課長ニャ」

 そう言われて、総務課長の前に行くと、またしても、目が点になりました。

「課長、秘書のなぎさちゃんニャ。大王様のことで、話があるニャ。こちら、総務課長の、ブロッケン男爵ニャ」

 見ると、なぜか、緑色の軍服に身を包んだ体がありました。そして、頭だけが、体の上に浮いていました。

その顔は、恐ろしい顔ををしています。片目に眼帯をして、茶色の髪が逆立って、口が裂け、ヒゲがピンと伸びていました。体と頭が、離れているのです。顔が宙に浮いている。

なんなの、この人? なんで、体と顔が離れているの? 頭の中には、パニック寸前です。

「初めまして、私が、総務課長です」

「秘書の早乙女なぎさです。よろしくお願いします」

 私は、慌てて頭を下げました。そんな私を片目で睨みつける課長は、口を開きました。

「それで、秘書さんが、何の用ですか?」

「あ、あの、今日の社長のスケジュールのことなんですが、急にキャンセルすることになりまして・・・」

「またですか!」

 顔と体は、別々なのか、顔は、私の方を向いて話しているのに、書類にサインしている手は、止まっていません。その手が、急に止まったのです。

「それで、広報課の課長さんに、行ってきたところなんですけど」

「ハイハイ、わかりました。毎度のことだから、大丈夫ですよ」

 毎度のことって、社長のドタキャンて、いつものことらしい。

実は、いい加減な社長なのかもしれない。社長の一面が見えた気がしました。

「後は、こっちで処理するから、秘書さんは、仕事に戻ってください」

「ハイ、ありがとうございます」

 私は、もう一度、深く頭を下げました。

「怒られなくて、よかったニャ」

「ホントによかったです」

「あの課長は、怒るとすっごく怖いニャ。この前なんて、一分遅刻した社員を焼き殺したニャ」

 私は、背筋が凍りました。絶対、遅刻できない。一分遅刻しただけで、焼き殺されるなんて、やっぱり、ここは地獄だ。

その後、私は、朝から命がいくつあっても足りない経験をしてから、パトロールに向かいました。

 階段を下りて、地獄の扉を開けて中に入ります。いつものように、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていました。

でも、二日目となると、少し慣れてきました。私に助けを求める亡者たちも無視できるようになりました。

 いつもの道を歩いていると、赤鬼さんに呼び止められました。

「なぎさちゃん」

「赤鬼さん、おはようございます」

「おはよう。今から、見回りかい。ご苦労さん」

「赤鬼さんも、お仕事、お疲れ様です」

 挨拶を交わして、歩こうとすると、またしても呼び止められました。

「なぎさちゃん、ちょっと待って」

 私は、足を止めて振り向くと、巨大な体の赤鬼さんがその場にしゃがんで、私を見下ろしながら言いました。

「実はさ、なぎさちゃんに頼みがあるんだけど、いいかな?」

「ハイ、何ですか?」

 地獄の鬼や番人たちの話を聞くのも、私の仕事です。

「あのさ、悪いんだけど、俺が仕事してる時だけでいいから、ウチの倅の面倒を見てやってくれないかな?」

「えっ?」

 赤鬼さんに子供がいたなんて初耳です。

「あの、お子さんがいるんですか?」

「まぁな。これでも、鬼の親なんだよ」

 そう言って、赤鬼さんは、照れるように笑いました。

「おい、出てきて、秘書さんに挨拶しろ」

 そう言うと、赤鬼さんの陰から、一人の子供が出てきました。

「ぼく、赤鬼ジュニアです。よろしく」

 見れば、小学生くらいの小さな男の子でした。でも、立派な赤鬼の姿をしています。

お父さんの赤鬼さんを、そのまま小さくしたような、可愛い赤鬼くんでした。

 真っ赤な体に縞々パンツ。金髪のクルクルヘアーに小さな角が生えています。

よく見れば、可愛い男の子の赤鬼です。

「お姉ちゃんは、なぎさっていうのよ。よろしくね」

 そう言って、笑顔で挨拶すると、赤鬼くんは、恥ずかしそうに私を見上げます。

「仕事が終わったら、迎えに行くから、よろしく頼むな」

「ハイ、わかりました」

「おい、なぎさちゃんの言うことをちゃんと聞くんだぞ。わかったな。食ったりしたら、承知しないからな」

「うん、わかった」

 イヤイヤ、ちょっと待ってよ。こんなに小さな鬼でも、人を食べたりするの?

「大丈夫だよ。ぼく、生きてる人間を見るの初めてだから食べたりしないよ。それに、お姉ちゃん、すっごく美人だもん」

 こんな子供にお世辞を言われる私って、何なんだろう・・・

そんなわけで、私は、赤鬼くんと手を繋いでパトロールを続行しました。

こんな地獄の底で、鬼とはいえ小さな子供が迷子になったり、ケガでもさせたら、私の命の危険です。

絶対に、この手は放しちゃいけない。とはいえ、鬼は鬼です。繋いだ手は、小さいけど立派な鬼です。

小さくても手は赤いし爪は尖っています。ちょっと危ないけど、決して、イヤではありませんでした。

まさか、鬼と手を繋いで歩くときが来るなんて、夢にも思いませんでした。

きっと、仲良く鬼と手を繋いで歩くなんて、私だけだろうな。

 そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、赤鬼くんから話しかけられました。

「お姉ちゃん、何を背負ってるの?」

「これは、青鬼さんの届け物なのよ」

「青鬼のこと、知ってるんだ」

「ちょっとだけですよ」

「あいつ、いつも、ぼくのお父ちゃんとケンカばっかりしてるから、好きじゃないんだ」

「そうなの・・・」

 どうやら、赤鬼と青鬼は、仲が悪いらしい。まだまだ知らないことが多い。聞いてみないとわからない。

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