十通目-3
正に海に行くには良い日和と言えました。
だからか、怜は何時になく機嫌が良かったのを覚えています。怜も令美もハイテンションでした。
いつもなら令美がこうなってしまうのをなんとか防いでいたのに、怜がこんな状態では令美が騒いでも、怒るに怒れない状況なわけで、気にしないでも良い現実は大いに助かりました。
僕と怜は前日までに話し「海の家では全てが高い」という話から、当日早く起き弁当を作って準備をしていました。
弁当を作り終えると、我々家族は車に乗り込んで目的地へと向かいます。
何度も通った海までの道は令美を連れて行くとなると、また違った空気感に変わっていました。悪い気分を一掃する為に好まれた海は、楽しみの方を優先させる存在へと変わって、見ているだけで良かったものは、初めて触れ合うということを楽しみにする感覚を生んでいました。
自らの中に生まれた感情に従い、海を存分に味わうつもりであるも、着いてみるとあまりに人が多いのに気を削がれた感を受けました。
天候が久しぶりに良くなった影響は、海に表れました。
駐車場に入るのも待たなければならず、長く待ちやることもなくなった怜は、とりあえず令美に日焼け止めを塗って時間を潰していました。
それから漸く入れたとなって海まで行っても、人また人です。我々が座った場所も偶々ポッカリと空いたスペースで、自由に選んだわけではありませんでした。
家族だけで存分に楽しめる感じはなく、何をするのも他人を気にしなければならないのは非常に面倒、だからといって無視するのは無理です。海の方を見ても中には既に多くの人がいます。其処まで行くのも人を避けて行かねばならないのは確実です。
多分中に入っても自由に泳ぐのは無理でしょう。
令美は覚え泳ぎを海でもやってみたいと思っていたでしょうが、こうも人が多いと簡単ではない。
来てそうそう諸々に困ってしまいました。
としても、来たからには海を楽しみたい。
という気で、早速令美を連れまずは水に浸かることにしました。それは初めての波を令美に体感させたいという目的です。
今日も重装備で海に入る気など、さらさらない怜に声を掛け、水着の僕らは波打ち際まで行こうとします。怜は「気を付けてね」と言って僕らを見送ります。
令美には初めての海でした。
令美は楽しそうに「キャッキャ」と、打ち寄せる波に追いかけられました。引いていく波を追いかけてはまた逃げます。
暫くは何度となく波との追いかけっこをしていました。
令美の気が済んだと見えるくらいになると、今度は水の中に入ろうと促します。僕は令美の手を握って少し歩みを進めました。
令美は海の水が冷たいのにリアクションをし、体を縮こまらせます。同時に僕の手を強く握ります。顔を見るとそれが楽しそうにも見えました。
一歩踏み出すごとに冷たいという感じを見せながら、令美の腰のあたりまで浸かる深さに来ました。波が体に当たると押し出されるような感覚があり、令美は波が来る度、足を一歩勝手に出されてしまいます。
僕はそれを利用し、押し出されるままに泳いでみるのを提案しました。浅い所なら安全ですし、横に多少人はいますが縦方向なら大丈夫そうです。
見ると令美には不安があるようでした。僕は「大丈夫だから」と言って励まします。
言葉に励まされ、一転やってみようかという気を見せました。
令美は砂浜の方へと体を向け体勢をつくります。僕は波の来るタイミングを見て「ほら今」と飛び出すタイミングを教えます。
令美は何度かやってみようとしますが、波の行ってしまった後に飛び込もうとして失敗しました。
別にそれでも良かったのでしょうが、僕は波に乗るような、押される感覚を味わって欲しく、令美が水に顔をつけて飛び出そうとしてはやめさせました。
何がやりたいのかを理解していない令美は、不満気な顔をします。
それでも何度かやって、やっとうまいタイミングで令美を水中に飛び出させるのに成功しました。
令美は自分の力以上のスピードが出たのに面白さを感じてくれたようです。戻ってきて「もういっかい」と言います。
今度は令美もタイミングをみて、僕の発する合図を待っています。
良いタイミングを見出した僕は「今」と言うと、令美は間髪を入れず飛び出し、波に押されました。
さっきよりも長く泳げたのに喜んで、もう一度やりたがります。
何回とやったでしょうか。
子供には飽きるという言葉がないのです。気づけば数時間やっていました。
我に返ると怜が気に掛かります。僕は令美に辞めるのを促し、一旦怜の所へと令美の手を引き帰ります。
怜は令美に「どうだった」と訊きます。令美は無邪気に「楽しかった」と返しました。
見ていても二人の会話には気にする部分など感じられず、全くの問題のない家族と言える状態でした。実際怜はまるで不機嫌にはなっておらず、にこやかに令美を見ています。
プールではあんなにも不機嫌になっていたというのに、海では別人でした。
恐らく怜にとって「家族で海に行く」というのは、前々から抱いていた夢で、夢の実現が不機嫌の種を持ち込ませなかったのだと察します。
昼ご飯へと流れても、前の様に行動が粗雑にならず弁当箱を取り出しています。
心配のいらない今回は会話も弾み、楽しい食事の時間でした。
楽しい雰囲気というのは、食べている物の味に影響すると改めて感じます。前のプールの時は殆ど噛んでいるだけに近い感覚があり、味というのは心の余裕があるから感じるものなのだと思い知らされました。
食事が済み、また海へと令美が行きたがったので向かおうとすると、怜が呼び止めます。
『変なことを言い出さなければいいが······』と待つ形になると、令美を近くに来させ、新たに日焼け止めを塗ります。
今回は前の件があるので、肌があまり見えない格好をしていた我々であるも、見ると僕の出ている所はもう色が変わっています。前のようにならない為にも、日焼け止めを塗るのは必須と思われました。僕の体にも塗るのを勧められます。
手に出してもらったのを自分の体に塗り込み、問題が起きなかったのを喜びながら、準備万端とまた二人は海へと向かいました。
令美は波に押され泳ぐのを再度やり始めます。僕も付き合ってタイミングを教え、令美の気が済むまでやらせました。
そのうちやっと気が済んだようで、今度は浜に対して平行に泳ぐのをやってみたいと言います。
それには矢張、人を気にしないといけませんでした。人は寧ろ午前より増え、難しくなっています。
それでもやってみさせようと場所と人の流れを読んで、行けそうなタイミングを見計らうと、まずは僕が先に行って「ここまで泳いでごらん」と、手を広げました。
令美は間を置かず泳ぎ始めます。
海用のゴーグルを買えなかった我々のせいで、令美は水泳用のゴーグルを付けていました。そんなのは気にもせず、水中に顔を沈め手を回し始めます。
あまり距離の取れなかった僕のもとへ、間もなく令美は到着します。
殆ど泳いだとも言えない距離を泳いだくらいで、令美は満足気な表情を見せています。
とはいえ、完全に満足ではなかったのか、面白いことを何度もしたい子どもの性分か「もういっかい」と言います。
仕方なくもう一度周りを確認してタイミングを見ると、また先に僕が行って手を広げます。令美はまたクロールで僕の所へと来ます。
この遊びも飽きるまでやりました。
令美はあんなに何度もやった遊びを突然終わらせると、抱っこして欲しい感じで屈んでいた僕の首に手を回してきます。
僕は令美を抱きながら「もう上がろうか」と問いかけると令美は「うん、もうあがる」と返します。
僕らは戻ることにしました。
こうしてもう海が終わるという感じが生まれると、一度思ったのとは逆の気持ちが僕には芽生えて来ます。『まだ海にいたい』という気が、段々と強く発生していました。
家族で海に来るという夢は怜だけでなく、僕にとっても大きな夢であったと気づかされ、この楽しい時間をもう少し味わいたいと思いました。
そこで令美を抱いたまま、子供では足のつかない深さの所まで歩いて行って「ここ深いよ」と、時間稼ぎ以外の何が目的でもないような事を言って少しの時間を過ごし、海を自分なりに楽しみました。
令美を連れ怜のもとまで帰ってみると、長い時間ほっておいたというのに、機嫌は悪くなっていないどころか機嫌の良いままで我々を迎え、令美の体をタオルで拭きました。
令美は体を拭かれた後、出して来たおやつを食べました。疲れからか、食べにくい状態だろうに怜に抱かれたままで食べています。
僕はこの何気ない光景を、とても幸せなものと受け取りました。『こんな幸せが続けばいい』と思ったのを覚えています。
休んでしまうと、海で散々遊んだ我々は疲れを感じ始めました。まだもう少し遊ぼうという気はあったものの、落ち着いてしまったあとにエンジンを吹かし直すのは、非常に億劫に感じられました。令美を見ると同じく疲れを出し、怜に抱かれたままでいます。
僕ら家族は帰ると言わないまでも、それを望んでいました。
必然的に帰る流れになり諸々を片付けると、我々は車へと向かいました。
僕はこの時の怜が令美を抱いて先を行く光景をよく覚えています。
令美は怜の肩に顔を乗せ、顔が潰れた状態で、後ろにいる僕を虚ろな目で見ていました。まだ強い日差しを浴びながら、もう寝てしまいそうだと思われる感じは、僕が怜と行った初めての山の時を思い出させました。
令美は自分に似ていると思っていたのに、怜の血も確実に受け継いでいると思わせ、内面などを含め向こうの影響を受けているかもと感じさせました。
そしてそれは、怜に近い何かを感じていたからこそ、令美を心から愛せている一因になっているかもしれないと当時思ったりしました。
僕が人を愛するという根底に怜が存在している証明です。それ程までに僕の人生に怜が、令美が、家族というものが、価値観の根本にあり、基準になっている。
一時熱くなっていたものが冷めつつあると感じていた僕であるも、そう深く感じた日でした──
こんな良い思い出も、前回の手紙で書いたように、夏が終わるとぶり返した怜の悪癖で、穏やかな生活は終わりを迎えました。
新たな問題は次回にしましょう。
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