十通目-2
令美は水に入るや否やバタ足を打って手を闇雲に掻きます。そこまでは良かったのです。
平泳ぎ以上にスピードが出て順調に進んでいると見えた令美でしたが、矢張息継ぎがうまく行きません。顔を上げることで手の動きが疎かになり体が沈んでしまいます。
一回目の息継ぎはまだ良かったのですが、二回、三回と続けると、うまく息を吸えない蓄積でより強く息を吸おうと無駄な動きが増し、最早手は進むために使うのではなく顔を持ち上げる為に使われ、手の力では足りないと解ると、バタ足は体を浮かす為に使われました。
もうクロールどころではありません。
溺れるのが確実となった時点で抱きかかえます。
令美は言っているのも聞かず、やっぱり駄目だったのを叱られるかもしれないと、不安気な顔を見せていました。
僕は優しく「息継ぎ大事でしょ?」と言って、また一から息継ぎの仕方を説明します。
令美の体を僕は支えながら、腕の動きに連動した顔を上げるタイミングを教えました。
令美は「今のでいい」と確認しながらちょっとずつ覚えて行き、体を支えられながらではあるけれども、正しい泳ぎを身につけ、ある程度見ていられるまでになりました。
その後、手を離しても全く心配入りませんでした。令美はまだ不格好ではあるが、溺れそうな感じはない程度に泳げています。
証拠に端まで泳ぎ切りました。
令美は殆ど泳ぎを覚えたと言えるくらいになっていました。自分でも手応えを得た令美は、プールの端っこを使って泳いでいたというのに、真ん中辺りまで自力で泳いで行くまでになっていました。
不安から僕も並走していましたが、全く手を借りるでもなく泳げています。
見た感じから、泳ぎに関しては「ほぼ心配はなくなった」と言えました。
今までにない強い手応えを感じながら「一旦休もう」と怜もとまで帰ってみると、心配は令美ではなく、こちらの方にあると解りました。
怜の機嫌が悪くなっていたのです。
前回の様子から、その兆しは見えていたとはいえ、まだ来てそんなに経っていません。
矢張怜の苦手な待つという行為で、気を悪くしていたようです。
多分、前回からの積み重ねと、我慢している愚行のストレスも加わりそうさせたのでしょう。
こうなると令美に付きっきりという訳には行かなくなっていました。優先して怜の機嫌を取らなくてはなりません。
曇りなのに完全ガードの怜の格好では、機嫌を察する表情などは見えていない訳ですから、単なる思い込みとも他人には感じるのかもしれません。僕には勘違いではないのが解りましたし、直後の感じからしても解りました。
怜は帰ってきた我々に、機嫌が悪いながらも水分を取らせようとしてくれます。その行動こそが不機嫌を表していました。
気を利かせ出してくれようとした、バッグの中に入っていた水筒を出すその仕草は非常に荒かったのです。
帰ってきた我々二人は怜の機嫌を察し、どうしようか困りました。本当は休憩もそこそこに、また練習したい気があったのです。でも、こうなってしまっていては、怜をなんとかしておかねばならない。後々に影響するのです。
僕はどうにかして機嫌を回復させようと怜に話しかけてみます。返答こそしてくれますが思わしくありません。
困ってしまって考え出したのは、昼食を使った方法です。以前書いたようにご飯には、肉体も精神も回復させる効果があるのです。
初めての山登りの時のような効果を期待し、僕は「少し早いけど、お腹が空いたから昼飯にしようか」と言いました。
怜は言葉に従い、バッグから弁当箱を出します。やっぱり一つ一つの動作が雑です。
まだ、ご飯を食べる前ですから仕様がありません。
怜の不機嫌を見て見ないふりをしながら、出して来た弁当を食べ始めます。
食べ始めても、怜がこんな調子では味がしません。会話も何をどう話して良いか判断しかねます。令美も同じような感覚だからか、何も話しません。
結局会話は当たり障りのない内容を選んで話されました。当然会話が弾む訳もなく、食事は終わりを迎えました。
食事を取り体力が回復したからといって、またプールへ向かうのは躊躇われます。怜の機嫌は食事をしたとて変わらなかったのです。
令美の顔を見るとプールにまだ入りたそうな表情はしていますが、それよりも矢張、怜の方が気になり、自分の意見を通すのを控えていると見えました。
苦渋の選択ですが、今日は諦めるよりないと判断しました。これ以上怜の機嫌が悪化すると危ない。
僕は本当の理由を言わず「今日はもう疲れちゃったからもう帰ろう」と言いました。
怜はそんなにも不機嫌を表に出しているというのに「えっ、もういいの」と言います。
当然言いたいことはありました。言わないままに「うん、もういいよ。ねっ、令美も疲れちゃったもんね」と問いかけます。令美は全ては納得していない感じを見せながらも「うん」と言ってくれました。
二人だけにしか解らない空気の察し合いで会話を成立させると、片付けを始めます。
怜が片付けで背中を見せている間に令美を見ると、残念そうにしているのが映りました。僕は令美の背中をポンポンと叩き、怜には聞こえないよう耳に顔を近づけ「また今度ね」と、すぐまた来る約束しました。
残念さが残っているからなのか、令美の表情は曇ったままです。僕は頭を撫でながら、怜の目に映って不機嫌が増さないよう、自分の後ろに隠しました。
粗方片し終わって出口へと向かっていると、令美にはまだ帰りたくない気があると僕の水着を引く感覚で解りました。まだ残っていたい気持ちは、プールへと留めておこうとする行動を促していたのです。
振り返って令美を見ると殆ど泣きべそです。泣き声は出さないまでも、ほぼ泣いている顔を怜に見せてはいけないと、僕は令美を抱っこし、令美の顔を胸に埋めたままにしました。
その日一日怜の機嫌が悪いという体験をしてしまうと、もうプールへは簡単に行けなくなっていました。また不機嫌になられてもいけないという心配から、海に行くという本来の目的すら進まなくなりました。
ただ、プールに行った目的からして、用意は出来ている状況で、海に行かない理由はないのです。
そこで流石に機嫌も回復しているだろう「夏の終わり頃にどうか」と怜に話してみると「そうしよう」と言うので、海に行く予定が決まりました。
別に怜は海に行きたいのですからそれで良いわけであるも、他方令美は海よりプールに行きたいようです。
僕にはあんな帰り方になってしまったのからしても「もう一度連れて行ってあげたい」という気があり、もし連れて行くとしたら作戦を立てねばなりませんでした。
僕が考えたのは、なんてことのない「海に行く前、最終確認としてもう一度練習するから」という理由です。
海に行くと決めた日まではまだ時間があり、その間に理由さえ納得させれば行くのは可能でした。多分怜は、プールに付いていくのに難色を示すでしょうから「僕と令美だけで行って練習する」とすれば、なんとかプールに行けるのではないかと考えたのです。
怜を置いていくせいで、機嫌が悪くなってしまうリスクはあるとしても、令美の願いは叶えたい。
実際言ってみると「海に行くのだから、用心しておくに越したことはない」と怜は言って、二人でプールに行くのを認めてくれました。
これで心置きなくプールで遊べます。一先ず令美の望みは叶えられそうで安心しました。
怜には「海に行く為の練習だ」と強調して伝え、ある週の休みを使って令美の望みだったプールへ行きました。
僕は怜に「日焼け止めを令美に塗ってね」と念を押され、弁当と日焼け止めの入ったバッグを押し付けられるように持たせれていたのもあり、それだけはきちんとやりました。
プールに於いては邪魔者になった怜を置いてきた二人は、此処へ来た体である泳ぎの練習など、まるでしませんでした。
令美は行きたい所へ走って行き遊んで、泳ぎの方は「泳ぎたい」となったら、偶に覚えた泳ぎをするくらいでした。僕はただ付いていくだけの、使用人に近い立場になっていました。
僕はそれで良かった。令美の楽しむ顔こそが僕の望みだったのです。
水遊びをする令美の楽しむ顔こそ、今となっては見ておく価値のあったものと言えます。
僕が令美にしてあげたことの中でも、上位に来る良い思い出です。
さておき、疲れ果てるまで遊んだ我々は、その日クタクタになって、すぐ寝付いてしまったのは言うまでもありません。確か、帰ってから怜に「どうだった」とか、泳ぎの上達具合を尋ねられたと思いますが、疲れから適当なことを言ってやり過ごした記憶です。
その日は疲れでぐっすり眠ったものの、起きてそうそう怜に「本当に日焼け止め塗ったの」と問い詰められ、目覚めが悪かったのを覚えています。
事実、僕も令美も、大分赤くなるまで日に焼けていました。
言っておくと、僕は確かに日焼け止めを令美に塗ったのです。それが十分ではなかったのでしょう。
令美はプールで僕の言うことを聞かなくなる程、テンションが上がっていたのは否定出来ない事実でした。ですから、日焼け止めを塗るのも大変で「僅かに与えられた時間で日焼け止めを塗り込むのは難しかった」という話なのです。
日焼け止めの塗り方が十分ではなかった部分の皮が剥けてしまうほどの日焼けをした我々は「痛い、痛い」と言いながらも満足していました。
怜を気にせず遊んだりしたのは考えてみればあまり無いことで、怜のいなかった環境が我々を満足させたに違いありませんでした。
偶然にするとなった、いつもはしない行動に依って、それを知るとなったのです。
そしてそれは、いつも気にしていた何かを改めて気づかせるとなりました。当たり前となった「他の家ならしない事」は日常を離れる時間が生まれた結果、改めておかしな部分であると思わされました。
であるのに、プールから帰った日にすぐ「気にしなくてはならないものを気にする生活」へと戻ったせいで、違和感を再び感じさせなくするのでした。
異常が正常に戻った我々は、目的である海へと行くまで、当然毎日怜の機嫌を気にしていました。
悪化し一時中止にもなるかもしれない危機もありつつ、結果的に中止になりませんでした。
怜の気が荒れてしまってからは「中止」とは言い出さなかったとはいえ『もしかしたらがあるかも』と思いながら僕はいましたが、幸い当日まで何もなく流れて行ったのです。怜も海に行きたいという気持ちは強かったようです。
海に行くと決めた日は快晴でした。
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