5

 翌日以降、ベンタブラックは現れなくなった。


 何事もなく穏やかな時間が過ぎるカフェ店内。客席の談笑、カウンター内に響く店員の声。いつもの夕方前の時間。美咲はレジから改めて店内を見渡す。


 これが普通、だよね。


 あの黒い人型の平面は、ポツンとこの中にいたのだ。あまりに異様な光景。この位置からずっとその様子を観察していた。

 あれから一週間ほど経つが、幸いまだ何も起こっていない。早退した翌日は、まだショックが戻らず店には迷惑をかけてしまった。

 あの時レジで気遣ってくれた中村が翌日、美咲の代わりにシフトに入ってくれたらしい。出勤してからも、マネージャーの高橋や店長まで「具合悪かったらすぐ言ってね」と気にかけてくれる。


 なんか、すっごく申し訳ない……


 正直辞めようと思っていた。あんな異様な体験があっては、次なにが起こるか知れたもんじゃ無い。想像するだけでも胸が締め付けられる感覚に襲われる。

 でも、説明もできない様なおかしな事で迷惑かけたのに、店の人たちはこんなに親切にしてくれて。この人間関係をあの一件のせいで蔑ろにするのはどうしても出来なかった。


 また何かあったら、相談するなり対処すれば……


 そう結論づけて勤め続けている。ひとつだけ気がかりなのは、手帳が見当たらない事だ。あのとき美咲はレジを離れる前、忘れものボックスに戻していた。それとなく他のスタッフに聞いてみたりしたが、誰も覚えがないと言う。


 そんな時、視界に人影が映った。

 ぼーっと考え事に耽っていたことに気付いた美咲は、「いらっしゃいませ」と挨拶をし、気を引き締めなおした。

 近づいてくるのは中年の女性客。ゆっくりと美咲のレジへ進んでくるかと思いきや、レジ横のペストリーケースを物色している。しばらく女性客の様子を見守った後、タイミングをみて、


「良かったら、なにかお取りしますよ」


 美咲は声をかけた。女性客は思案した後、ペストリーケースを挟んで逆側に位置するレジへ進んでいった。


「らぁっしゃいませ~」


 後輩中村の挨拶が聞こえる。

 次のお客様がいないことを確認した美咲は、レジカウンターの後ろにあるコーヒーサーバーのストック量と賞味期限タイマーを見る。どちらもまだ大丈夫。

 カウンター内の仕事はない様なので、客席に出て空いたテーブルを拭いて回る。


 大丈夫。普通に仕事できてる。


 そんなことが頭をよぎりながら、退勤までの一時間を過ごした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る