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 こうして男の手帳は、レジ横にある忘れものボックスに収まった。


 しかし、こうなると大変だ。あのお客様の忘れもの(美咲風に言うならベンタブラックの遺物)が目の前にあるのだ。しかも今は来客も少ない夕方前、従業員も談笑混じりに仕込みなどをやる時間。

 先月入った後輩なんか、カップ洗うふりして「あのお兄さんカッコよかったっすね~」なんて他の店員とくっちゃべってるじゃないか。

 いちど好奇心に火がつくと止まれないのは悪い癖だ。非常識なのは分かってる。だが、今しかない。ベンタブラックの遺物を確認するなら今がベスト。初対面から一ヶ月、機は熟した。


 他のスタッフの目を盗み、美咲は忘れものボックスからスッと手帳を取り出す。両手は隠れる様にレジカウンターの下へ。指先が少ししっとりしているのを感じながら、ページを開く。

 ゆっくりと数ページめくる。しかしそこにあったのは、すべて空白のページだった。


 なんだ……


 少し緊張の解けた美咲は、残りのページをペラペラっと雑に流していった、時だった。

 一瞬、目がとまる。なにか書かれているページがあったのだ。

 今度は手帳の後ろからゆっくりとページを送る。何かが透けて見える。


 あ、この次のページだな……

 そう思い、ゆっくりと、紙をめくった。


 赤い文字


 視界が歪む。うわんうわん、と音では無い何かが耳の周りを包み込む感覚。足元の感覚がおぼつかない。やばい……


 美咲は手帳を閉じた。


 ふと店内に目線を戻す。まばらな客席、穏やかな陽光。さっきまでの店内だ。大丈夫、ちゃんと聞こえる。静かな談笑や、後輩の「いや~、うち重課金勢なんで~」と言う声も。


 待て、ちゃんと確認しよう。


 今度は息を整えて該当する場所までめくる。ゆっくりと、落ち着いて、あのページを開いた。

 書いてある。確かに。

 赤い字で、


 佐々木美咲


 現実だと分かった瞬間、先ほどと打って変わり、背中をなにかがミチミチと這い回る感覚が襲う。手汗やばい。いや、今顔から冷や汗出てない?激しく体が脈打っているのをはっきりと感じる。


 なんで、私の名前?


 いつからだ?いや、ていうか誰?知ってる人?いや知ってる人なら余計やばいって!なんなのこれ。あ、もしかしてほんとに異世界?ついに来ちゃったか~、ログインボーナスなんにしよっかなぁ~……ちがう。いや、無理、こわい、なにこれ、


——その時、


 ちょん、と何かが美咲の脇に触れる。反射的にビクッと体が反応し「ひっ」と息が漏れた。

 振り向くとそこには先ほどの後輩、中村のニコッと愛嬌のある笑顔。


「佐々木さん、レジ交代です~、てかめっちゃビックリしてませんでした今?」


「ああ、うん……」

 かろうじて返事をしレジを離れようとした時、


「……なんか、顔やばくないっすか?真っ青ですよ?具合悪いですか?」

 中村が心配そうに美咲の顔を覗き込む。


「えっ、ていうかやばいですよ!めっちゃ調子悪そうじゃないですか!この後、佐々木さん休憩みたいですけど、1人で歩けます?」


 レジへ向かってくる客にも構わず、中村は美咲のことを支えバックルームまで付き添おうとする。


「ごめん、大丈夫。ほらお客さん来てるし……」


「あっ」と振り向いた中村は急いでレジに戻った。

 美咲はおぼつかない足取りでバックルームの入り口をくぐる。ドアは勝手に背後で閉まり、「らぁっしゃいませ~」という中村の声が遠く消えていった。

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